雑想庵の破れた障子
ぺんぺん草に埋もれた山中の雑想庵。 破れた障子の小さな穴から見えるものを綴ります。
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9月2日が、真の終戦の日ではないのか?
去る9月2日は真の終戦の日(敗戦の日)であったハズです。そこで、そのことについて言及する記事があるかどうか? 5大全国紙(朝日・読売・毎日・産経・日経)の9月2日および9月3日付の朝刊を丹念に調べてみました。見出しとリード文をチェックするという方法で調べたのですが、記事本文にまで踏み込んでチェックしきれないので、見落としはあるかもしれません。しかし見出しとリード文を見る限りでは、9月2日が真の終戦の日であることを示した記事は全くありませんでした。

9月2日が真の終戦の日であるのにもかかわらず、8月15日のような何の式典もなければ、何の特別番組も特別報道もありませんでした。政府も何の声明も発表しませんでした。さる9月2日が本当の終戦の日、もっと言えば「敗戦の日」であるのは明白なのに、これは一体どうしたことであろうか? 歴史的に見れば、1945年9月2日に、東京湾上に停泊するアメリカ戦艦のミズーリ号の甲板で、日本と連合国の間で降伏文書に調印して、正式に戦争が終結しています。これが本当の終戦の日ではないのか?

しばしば言われることに、戦争が終わっているにもかかわらず、ソ連が千島列島に侵攻してきたということがあるのですが、ソ連の対日参戦は8月8日であります。その時点では戦争が終結していないのは明らかです。8月14日もしくは8月15日が終戦の日であるとするならば、ソ連が千島列島の占守島に攻め込んだのは8月18日であります。確かにそれは8月15日以降ではありますが、しかしながら降伏文書に日本側代表が署名したのが9月2日である以上は、終戦してから、ソ連が侵攻してきたという主張はあきらかにおかしいです。

どうもこうも、67年前の終戦の年についての情報には、情報が錯綜しているとか、諸説が紛糾しているとかいうことではなくて、意図的な政治的情報操作があるように思えます。

●そもそも、戦争というものは、宣戦布告なしの事変(たとえば支那事変)という形式のものもありますし、国家以外の武装集団どうしの衝突は戦争と言わずに紛争(たとえばコソボ紛争など)と表現しますし、国家とその国家内の部分との衝突は内戦として分類されましょう。いずれにせよ武力衝突であることには変わりません。それはさておき、国家と国家との戦争は普通は宣戦布告がなされ、講和条約の締結をもって終結するものと考えられるようであります。ふつうは、どちらかが白旗を挙げて降伏して終結して、勝敗が決せられます。もちろん、戦争に引き分けというか、戦況がどちら側にも好転せず、双方が痛手を負ってこれ以上はご互いにかなわんから、双方痛み分けでケリをつけましょうとか、あるいは一旦停戦協定を結んであとはうやむや、と解する事例もありましょうが、普通は勝つか負けるかどちらかでありましょう。いろいろ資料に当たって調べてみましたところ、戦争は、一方の国が相手国に宣戦布告を投げつけて始まり、戦闘が行われて、やがてどちかかが「参りました」と白旗を挙げて、講和条約が締結されて終了するというのが、国際法的にも戦争のルールのようであります。

日本と連合国との間で講和条約が締結されたことをもって、真に戦争が終わったと解するならば、1951年(昭和26年)9月8日にサンフランシスコ講和条約が調印されたのですから、これを以って終戦の日とすべきでありましょう。日本は6年間に及ぶGHQに占領され支配下にあったわけですが、この1951年9月8日に講和条約が締結され、翌年の1952年4月28日にその講和条約が発効して、日本の独立が回復(いちおう格好だけは)しました。この9月8日もしくは4月28日が本当の意味での終戦の日かもしれません。(占領軍が支配していたということは、戦火こそ交わされないものの、戦後処理の状態が6年間続いた)

あるいは、休戦条約の締結を以って戦争終了と解するならば、明らかに9月2日が終戦の日である筈です。ポツダム宣言と言う休戦条約を締結したのは1945年9月2日であるから、その日を「終戦の日」と言うべきではないのか? そういう観点からみれば、8月15日を「終戦の日」などという主張は誤魔化しであって、そういわないのは政治的なイメージ操作であると言ってもいいのではないのか? 8月15日はあくまでもポツダム宣言という休戦協定を受け入れなさいと迫る連合国の要求を、日本が受け入れると最終決定し表明した日なのであって、正式に休戦協定が結ばれた日では決してないハズです。

●日本史の教科書に終戦に関してどのように記述されているか、見てみます。手元にそれがないので、代用品として『もう一度読む山川日本史』から引用します。この書物は山川出版社が出版している高等学校用の日本史教科書を下敷きにして、社会経験を積んで鋭い問題意識をもつ大人がもういちど日本史の基礎を学び直すためにと、リライトされたものです。数年前にベストセラーになった本ですが、内容は高校日本史教科書そのものです。この書物では、何年何月何日を以って戦争が終わったのかは明記していません。

【ちょっと長いが、引用開始】
戦争の終結 312-313頁から引用。
一方連合国側は、1943年(昭和18)11月、米英中の3国首脳がカイロ宣言を発して、日本とあくまで戦いぬくことや日本の植民地を独立または返還させることなどを明らかにした。1944(昭和19)年末以降、アメリカ軍機による本土空襲が本格化した。とくに1945(昭和20)年3月の夜間大空襲で焼夷弾(しょういだん)攻撃で、東京の下町が焼きつくされたのをはじめ、あいつぐ空襲のため、全国の主要都市はほとんど焼野原となった。同年3月、アメリカ軍が沖縄に上陸すると、住民をまきこんだはげしい戦闘がくりひろげられ、6月には日本軍が全滅した。沖縄はアメリカ軍によって占領された。沖縄では、この戦闘で民間人約10万人をふくむ約20万人の日本人が死亡した。

ヨーロッパでも、1943年9月、イタリアが連合国に降伏し、45年5月にはドイツも降伏した。鈴木貫太郎(かんたろう)内閣は、同年6月、日本と中立関係にあったソ連を仲介として和平工作に着手したが、すでに同年2月、ローズヴェルト・チャーチル・スターリンの米英ソ3国首脳はひそかにヤルタ協定をむすび、日露戦争で失った領土の回復や千島の獲得などを条件に、ドイツ降伏後の2~3カ月後にソ連が対日参戦することをとりきめたいた。1945年7月、米英ソ3国首脳はふたたびポツダムで会談し、その機会に米英中3国(のちにソ連も参加)でポツダム宣言を発し、日本に降伏をよびかけた。

しかし、ソ連を仲介とする和平の実現に期待していた日本政府は、はじめポツダム宣言を黙殺する態度をとった。これに対してアメリカは、同年8月6日広島に、9日には長崎に原子爆弾を投下し、一瞬のうちに市街地を壊滅させ、多数の一般市民を死亡させた。そのうえ8月8日、ソ連が日ソ中立条約を侵犯して対日宣戦を布告し、満州・千島などに侵入を開始した。

日本政府もついに意を決し、昭和天皇の裁断という異例の形をとって軍部などの戦争継続論をおさえ、1945年(昭和20年)8月14日、ポツダム宣言受諾を連合国に通告し、翌8月15日、天皇自身のラジオ放送をつうじて、国民にこれを明らかにした。そして9月2日には、東京湾内のアメリカ艦船ミズーリ号上で日本は連合国とのあいだで降伏文書に調印した

こうして6年にわたって、全世界に史上空前の惨害(さんがい)をもたらした第二次世界大戦は、枢軸陣営の敗北によっておわりをつげた。第二次世界大戦における日本の死者・行方不明者の正確な数字はわからないが、軍人と民間人あわせて約300万人、被災者合計約875万人と推定されている。なお、戦後、ソ連軍に降伏した日本兵ら約60万人がシベリアやモンゴルに連行され、強制労働に従事させられ、約6万人が死亡した。 【引用終了】

●下線はわたくしが引いた。一連の動きが推移していって、すなわち、ポツダム宣言 → 日本は無視 → ソ連の和平仲介に期待 → 原爆投下 → 御前会議 → ポツダム宣言受諾決定 → 連合国に通告 → 連合国軍上陸 → GHQ設置 → ポツダム宣言降伏文書に調印、とこういう動きの結果として戦争がおわった。という記述です。しいて申せば、最後に示した項目の “降伏文書に調印” をもって戦争が終わったと言っているように読めます。すくなくとも、8月15日に戦争が終わったとは記述されていないです。

【ここで、1945年の終戦前後の動きを再確認】
7月17日 ポツダム会談が始まる。戦後処理と日本の降伏条件について
     話し合われた。
7月26日 米国・英国・中国・ソ連の4か国の名で、日本を降伏させる
     条件等を定めたポツダム宣言が出された。
8月02日 ポツダム会談が終了した。
8月06日 午前8時15分、広島に原子爆弾が投下され炸裂する。
     犠牲者数は正確には不明だが、9-16.6万人。
8月08日 ソ連が日本に対して宣戦布告。満州・樺太で進撃開始。
8月09日 午後0時01分、長崎に原子爆弾が投下される。
     犠牲者数は正確には不明だが、6―8万人。 
8月09日 支那事変以降、第14回目の御前会議が開かれた。10日未明
     の2時30分、国体護持を条件にポツダム宣言受諾を決める。
8月14日 最後の御前会議が開かれ、ポツダム宣言の受諾を最終決定。
8月15日 正午に天皇が玉音放送で、ポツダム宣言を受諾し連合国に降
     伏することを、国民に対して発表した。
8月18日 日本軍とソ連軍との占守島の戦いが勃発。
     21日に日本軍降伏
8月22日 三船殉難事件、樺太からの引上げ船がソ連潜水艦に撃沈。
8月28日 占領軍の先遣隊が厚木基地に上陸。横浜にGHQの本部設置。
8月30日 連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が厚木飛行場に到着。
9月02日 日本帝国政府が東京湾の戦艦ミズーリ号艦上で連合国に対す
     る降伏文書(ポツダム宣言)に調印した。
     第二次世界大戦が完全終結。(対日戦勝記念日)
9月03日 フィリピン防衛戦を行っていた山下奉文大将が降伏調印。
9月07日 日本軍沖縄守備隊がアメリカ軍に降伏調印。

●この1945年の終戦前後の動きから、8月15日にピタリと戦闘が終わったわけでなく、その後も1週間程度あちこちで小競り合いが行われています。また、9月2日に画然と突然に休戦協定が調印されたわけでもなさそうです。その1週間ほどまえから連合軍が上陸してきて準備をしています。つまり終戦というのは特定の日時を以って一挙にそれが行われたのではなく、1か月ほどの時間の幅のなかで進行していった事象ということではないか? それである特定の日を終戦の日と定めるのであれば、休戦協定が調印された日とするのがよさそうです。

●GHQが日本を占領統治していたころは、9月2日を終戦の日としていたようであります。しかしながら、一応恰好だけは日本の独立が回復されてからは、終戦の日がいつとはなしに8月15日にすり替えられたようであります。Wikipedia「終戦の日」を参照。終戦の日がピシリと8月15日に決まっているわけではなく、要するに色々な考え方や基準がありそうです。

●それにしても、5大新聞が9月2日の終戦(ポツダム宣言調印の日)に関して一切の記事がないのは、異様な感じがいたします。わたくしの見方では、9月2日を終戦の日としたならば、終戦と言うより「敗戦の日」というイメージが強くなるために、国もマスコミも避けているのではないのか? 終戦の日は同時に占領が始まった日でもあります。1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効して、日本の独立が回復されたとされていますが、60年経っても占領統治の残渣が色濃くあちらこちらに観察できます。あるいみ、日本は連合国(アメリカ)の占領統治のままです。たとえば年次改革要望書とか日米経済調和対話などは、まさにそれ。口当たりは対話だとか要望とかソフトでありますが、実態は内政干渉まがいの命令書であることは多くの憂国の人々の指摘するところです。そういう、いまだに占領統治が続いている実態を隠すために8月15日を終戦の日としている面が濃厚であります…。

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