雑想庵の破れた障子
ぺんぺん草に埋もれた山中の雑想庵。 破れた障子の小さな穴から見えるものを綴ります。
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カゴノキのまだら模様の不思議
カゴノキというクスノキ科の樹木はありふれた普通種で、身近なところに沢山あります。暖帯照葉樹林を構成する重要な樹木で、諭鶴羽山系の中腹以下の標高の低いところでは優占種となっていることも多いです。山系の山頂付近には全く見られません。おそらく耐寒性があまりないのではないかと思われます。カゴノキは “鹿仔の木” の意味だとされています。その樹皮にシカの仔のような斑点模様があるのです。で、その斑点模様を少し観察してみました。

カゴノキ
↑枝や葉は、クスノキ科の他の樹木、クスノキ、ヤブニッケイ、シロダモ、イヌガシ、タブノキなどに全然似ていません。それで樹皮をみれば見間違えることはないでしょう。

カゴノキの幹 径8㎝
↑幹の胸高(地上1.2~1.3m)直径が8㎝では、斑点は生じていません。

カゴノキの幹 径13㎝
↑幹の径が13㎝になるとポツポツと斑点が生じ始めます。

カゴノキの幹 径18㎝
↑幹の径18㎝になると斑点の数がかなり増してきます。

カゴノキの幹 径30㎝
↑これは幹の径が30㎝のかなり大きい木です。ほとんど斑点だらけです。小判状の形の斑紋が多いのですが、それぞれの形状は不規則です。複数の斑紋が連鎖したようなものもあります。斑紋の色も白っぽいものもあれば、灰色・茶色っぽいものもあります。それと、剥離直後は白っぽく、時間の経過とともに帯灰色とか帯緑色のように色が濃くなるようであります。

カゴノキの樹皮の剥離の様子
↑樹皮が今まさに剥がれようとしているものもあります。よって、カゴノキのシカの仔のようなまだら模様は樹皮が剥離することにより生じているようです。

剥離した樹皮
↑剥離しかけている樹皮を強引に剥いでみました。樹皮が剥がれても木質部が見えるわけではありません。どうやら樹皮が表層と深層の2重に分離しているような感じです。が詳しいことはよく分かりません。(まだ観察していない。近いうちにどうなっているのか調べてみます)

●沢山のカゴノキを調べてみましたところ、幹の径10㎝までならば斑紋がなく、10㎝を越えると斑紋が生じ始め、径20㎝以上になると樹皮一面に斑紋だらけ…、となる傾向が認められます。ただし、カゴノキの老大木が伐採されてその跡に発生した “ひこばえ” ならば、径5㎝とかのごく細い幹にも斑紋が沢山できています。

ということは、シカの仔模様の斑紋ができるのは、幹の太さではなく、その個体の樹齢が関係しているような気がします。たとえば、樹齢10年を越えると斑紋が生じ始めるとか…、だろうと思われます。幹の太さと樹齢は相関しているから、幹が太ると斑紋が出来るように見えるだけなのではないか?

たとえて言うならば、仮に、人は50歳を超えると白髪が生じ始める、としよう。小柄で子供のような体格しかない50歳のAさんは、最近白髪が出てきた…。つまり大人の体格はないのだけれども、年齢が50歳と老けたので白髪が出てきたのである。白髪が生じた原因は50歳という年齢であって、大柄とか小柄とかの体格は関係ない…。てな感じですね。ま、本当のところは樹皮の組織とか細胞とかどうなっているのか調べる必要がありそうです……。

●追記
岡山理科大学 植物生態研究室(波田研)波田先生の解説
↑波田先生と学生らがカゴノキを見ていたとき、学生が気がついたそうです。「こんなに皮を剥ぎ落とされたら、ツル植物はたまったものではないだろうな」と話し始めた。なるほど!

ふむふむ。そうかもしれません。よじ登ってくる蔓植物(気根で這いあがるキズタやイタビカズラはやっかいです)を樹皮をはがし落すことにより、彼らをふるい落とす…。なるほど。一応もっともらしい説明です。でも本当にそうか? カゴノキに蔓植物がよじ登っている例がないか観察する必要がありそうです。あるいはカゴノキからふるい落とされた蔓植物がカゴノキの足元にないか、探してみる必要がありそうです…。ある仮説は実際の現象をもって検証しなければなりません…。

そう言えば、カゴノキ以上に樹皮がはがれおちるバクチノキには蔓植物がよじ登っていないですね。
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実りの秋、食べられる野生果実(その2) アケビ
待望の稔りの秋がやってまいりました。山でも豊饒なる野生果実がいろいろと成っています。本日9月30日に近くの山をトレッキングしてみたところ、すでにアケビが熟して裂開していました。諭鶴羽山系にはアケビは3種自生しています。アケビの語源は “開け実” で、熟すると裂開することからとされています。

アケビ……………葉は掌状複葉で、小葉が5枚あります。
        果実の色は薄紫~水色、あるいは白っぽいこともあ
        る。また茶色のこともある。個体によりさまざま。
        果実の形状はやや長細い傾向がある。

ミツバアケビ……葉は3出複葉で、小葉が3枚あります。
        果実は赤~桃色がかっていることが多い。
        果実はやや幅広で大きく、果皮はやや厚い。

ゴヨウアケビ……上記2種の雑種とされます。希にある。
        小葉は5枚、小葉の縁に鋸歯がある。

アケビの蔓がマント状にはびこる
↑アケビは蔓性の植物で、他樹に這い上り、他樹の樹冠を覆うようにはびこります。昔の人はこのアケビの蔓でよくカゴを編んだものです。

アケビの果実
↑9月30日、南あわじ市灘山本にて。山の中腹の海抜250mぐらいです。もう熟していました。長年の観察からこの地域でのアケビの熟期は9月20日~10月10日ぐらいだと思います。ときには9月15日に熟して裂開していることもあります。総じて、ミツバアケビよりもアケビのほうが熟期は1~2週間ほど早いようです。

アケビの果実の色は、写真の色のものが一番多いですが、もっと白っぽいものや、茶色のものもあります。種子が多いのですが果肉はとても甘くて、この糖分が山登りで疲れた体を癒してくれます。果皮は苦味があるのですが薄く刻んで炒めものに混ぜると食べられます。沖縄のゴーヤみたいな苦みです。

写真の4個の果実を測ってみました。
長さは、9.3㎝、9.8㎝、10.3㎝、12.5㎝、です。
幅は、一番大きなものが5.0㎝、残りの3個みな4.0㎝です。
重さは、64g、79g、80g、116g、です。

井上則雄氏のホームページより 『山形流あけび料理(の一部)』
↑おそらく山形県に在住している方のホームページと思われます。子供のころから山野に遊び、アケビを採取してアケビの皮の郷土料理を食べていたそうです。アケビの皮の炒めもの(味噌味仕立て)の作り方を紹介してくださっています。どうやら山形県ではアケビの皮はごく普通の食材のようです。アケビの皮は油との相性がとても良いらしいです。

アケビの皮の炒めもの
↑わたくし山のキノコの作品です。アケビ料理を試作してみました。シンプルなアケビの皮入りの野菜炒めです。わたくしは板前でもコックでもないので、あまり美味しそうに見えないかもしれません。材料はピーマン・キャベツ・アケビの皮、するめいか、です。味付けもシンプルに塩コショウと醤油です。リング状に見えるものがアケビの皮で、輪切りにしました。

で、アケビのお味のほうは…、確かに苦味があります。しかし耐えられない苦さではなく、なんとなくほろ苦いという感じです。ちょうど沖縄のゴーヤ(ニガウリ)程度の苦さで、食感・舌触りもかなり似ています。食べなれたならば全く問題ないでしょう。病みつきになるかもしれません…。それと、アケビの皮は油をよく吸うようで、食材としてはナスの扱いに準じて料理するとよさそうです。ひょっとすると糠漬けの漬物なんかいいかもわかりません。

山形県の公式ホームページ  おらほの自慢【あけび】
↑どうやらアケビは山形県公認の正式な果物であり、正式な野菜であるようです。なんと、朝日町というところでは10名の農家の方が生産組合を作って、アケビ栽培に取り組んでいるようです。出荷用の化粧箱に入ったアケビの写真は必見の価値があります。

文部科学省 『五訂増補日本食品標準成分表』 第2章 五訂増補日本食品標準成分表(本表)7 果実類
↑なんと驚くことに、5訂増補版の『日本食品標準成分表』の「果実類」のところにアケビが記載されています。果実類の最初にあります。果肉と果皮の両方の栄養成分が載っています。アケビは文部科学省のお墨付きの果物であり食品であるということですね。
淡路島の9月の降水量
2011年9月の淡路島各地の降水量の大きな特徴は、2回の台風、台風タラス(T1112)及び台風ロウキー(T1115)の影響による大雨により、もともと少雨の瀬戸内海気候エリアにしては記録的な降水量になったことです。淡路各地の9月の総降水量は374~952㎜の範囲に散らばっていますが、従来の傾向と大きく異なるのは、淡路島南部の海岸地帯で雨量は少なく、淡路島北部で顕著な多雨となったことです。最多雨量を観測した志筑では9月の月間雨量が1000㎜にあと一歩と迫る952㎜となりました。

淡路島の9月の降水量

●淡路島内に3か所のアメダス観測所があります。2011年の年初から9月までの月毎の降水量は次の通りです。なお下記の数字と図表の数字に若干の食い違いが生じています。これは国土交通省川の防災観測所のデータでは1.0㎜刻みの集計で0.5㎜の降雨はカットされる等、観測方法・データ処理の相違によるものであろうと思われます。

    洲本    南淡    郡家
1月    2.5    1.0     1.0
2月   82.5    57.5    50.5
3月   45.5    38.0    36.0
4月  109.0    98.0    60.5
5月  401.5   263.0   300.0
6月  245.0   272.0   154.0
7月  245.5   287.0   173.0
8月   29.0    41.0     7.0
9月  811.5   619.0   881.5

計  1972.0   1676.5  1663.5  

●洲本測候所では2000㎜に近づいています。今年もまだ3カ月残していますから2000㎜超は確実で、1919年~2010年の観測期間の年降水量の最大値2323㎜(2004年)を更新するかどうか注目されます。
南淡の最高値は2049㎜(2004年)統計期間は1978年~2010年です。
郡家の最高値は1842㎜(2004年)統計期間は1976年~2010年です。
シイ(椎)の観察 (その3)             ――椎の実はイノシシを太らせ、政府公認の食品――
シイの葉と堅果
↑シイの葉の表面は深緑色で、裏面は茶色がかっています。果実は4~5㎝の短い枝に数個ついていて房状に成ります。果実は、総苞と呼ばれる袋状の皮の中に黒っぽい堅果が入っています。1本の短枝に何個の果実が成るか? 調べてみました。大木全体を調べるのは不可能ですので、任意の周囲15センチの枝に成ったものについてのみ、個数別の度数分布を全て調べてみました。

(1短枝の果実数)(出現度数)
 1個つくもの……………11
 2個つくもの……………27  総短枝数は156個あります。
 3個つくもの……………32  
 4個つくもの……………39  1本の短枝に付く果実数は、
 5個つくもの……………24  1~11個の範囲に分布しています。
 6個つくもの……………12
 7個つくもの……………7
 8個つくもの……………2
 9個つくもの……………0
 10個つくもの …………0
 11個つくもの …………2

●さて、シイの堅果(種子)は食べられます。利用の仕方では上等なナッツになるのです。ブナ科の堅果は樹種によって渋いものが多く食べることができません。食用可能な物は、クリは別格としても、他にはブナとシイぐらいののもです。他にはウバメガシのドングリは渋抜きして豆腐のようにすれば食べられます。

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↑写真の堅果(種子)は173個あります。総重量は181グラムです。(採取したての乾燥していない状態の重量です) 1個の平均の重さは1.046グラムとなります。

シイの実は1個約1グラムで小さいのですが、大量に成ります。諭鶴羽山系には大量のシイの木が自生していますが、そのシイの実の総生産量はどのくらいでしょうか? 調査して推定してみるのも面白そうです。諭鶴羽山系で生活するイノシシは、秋にこのシイの実を沢山たべて丸々と太ります。よく太ったイノシシは体重が200キロに達します。(南あわじ市神代のハンターが以前206キロのイノシシを、南あわじ市灘倉川でしとめました)

シイの実はイノシシを太らせる顕著な効能があり、栄養満点、風味が穏やかで食用になります。結構なお値段もつきます。購入すると高いので、カゴを持って山に採りにいきましょう。
シイの実販売店「はなまるフルーツ」山の幸 椎の実
↑シイの実が商品になるとは全く驚きです。しかも結構なお値段です。100グラムが380円、徳用500グラムが1750円です。皮をむいたシイの実は大きな米粒みたいで、とてもおいしそうですね。

四訂食品成分表 96ページの一部
↑古い版ですが、『四訂食品成分表 1997』(女子栄養大学出版部)の96ページをコピーしました。(紙の書物です)
この書物のもとのデータは科学技術庁が発表したものです。これにシイの実がちゃんと記載されています。ということは “椎の実” が食品であるということを政府が公認しているのです。
シイの実の可食部100グラムあたり、256キロカロリー、カルシウムは65㎎、ビタミンCは110㎎など食品としての価値があります。
シイ(椎)の観察 (その2)             ――シイの大木には板根(ばんこん)が生じる――
●あまりにも身近にあるシイの木ですがが、実体がまだよく分からない面があるようです。本州・四国・九州にあるシイは細かく分けるならば、スダジイとコジイ(ツブラジイ)となるのですが、これらが別々の種であるという説もあれば、同種内での変異であるという説もあり、諸説ふんぷん、決着がついていないようです…。

山田浩雄『スダジイとコジイ』 日本林学会会報(46),43-47,2006-02-01 (オープンアクセスボタンをクリックすると読めます)

山田浩雄『岡山県周辺におけるスダジイとコジイの地理的分布』林木遺伝資源情報 No.7, 2002.2

素人的には、スダジイとコジイが別種であろうと種内変異であろうと、どっちでもいいじゃないかとも思うのですが、研究者にとっては深刻に悩む問題のようです。

スダジイの樹皮
↑こちらは明白にスダジイです。樹皮に縦の深い溝があってごつごつしています。わが淡路島ではどちらかと言うとスダジイのほうが多いようです。海岸地帯にはスダジイが多く内陸地帯にはコジイが見られる、という傾向があるようです。両者を比べると相違点は次のようです。(観察をすればするほど、どちらとも言えないものが必ず出てきます)

スダジイ……樹皮の溝は深く、ごつごつしている。
      葉はやや大きくて厚い。種子(堅果)が長細くて大きい。

コ ジ イ……樹皮の溝は浅く、なめらかである。
      葉はやや小さくて薄い。種子(堅果)が丸くて小さい。

シイの大木では板根ができる
↑シイの大木になると、根際に板根(ばんこん)がよく見られます。熱帯や亜熱帯の樹木のように著しく発達した板根ではないので、“板根のなりかけ” という感じでしょうか。幹から根に移行する部分が板状になっています。

諭鶴羽山系に自生する樹木で「板根のなりかけ」が見られる樹種は私の観察では、スダジイ・ホルトノキ・ムクノキ等です。いずれの樹種でも幹の直径が1mを越えるような大径木で見られ、小さな木では見られません。しかし大木に必ず板根が生じるというものでもなさそうです。傾向としては、急斜面でしかも基盤の岩石が露出していて土壌が少ないようなところで、板根が発達しているように思います。

急斜面で土壌が少ないので直根の生育が阻害され、面的に広がる側根が発達、大木になると幹の重量が数十トンとか非常に重くなり、その樹木自体の重さや、風を受けた場合の強い風圧などの圧迫に耐える為に、根際を板根にして補強したのでは? 一種の適応現象かな? と思うのですが違うかもわかりません。

巨大な板根
熱帯の板根(ばんこん)はスケールが違います。迫力満点です。諭鶴羽山系のものはさしずめ “板根の卵” 程度か?
シイ(椎)の観察 (その1) シイは万葉植物
シイの木の観察です。シイはごく身近にあってありふれた樹木です。北海道の人ならばシイを見たことがないという人はいるでしょうが、西南日本でシイを見たことがないという人はほとんどいないでしょう。

シイの木

果実が成っている


●さて、シイの木は有名な万葉植物です。

万葉集 巻2の142 (有間皇子・ありまの みこ)

【原文】
 家有者 笥尓盛飯乎 草枕 旅尓之有者 椎之葉尓盛

【訓読】
 家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る

【読み方】
 いへにあれば けにもるいひを くさまくら
               たびにしあれば しひのはにもる
【語釈】
 家にあれば…“あれ(已然形)+ば” は確定条件順接ではなく、習慣
       的事実として述べる表現。家に居る時はいつもの意。
 笥(け)……飯を盛る方器なり、と古い辞書にあります。金属製なの
       か? どのようなものか諸説あるようです。
 草枕…………旅にかかる枕詞です。「旅にしあれば」の「し」は強意
       の助詞です。
 椎(しい)…ブナ科のシイの木。照葉樹林の代表樹種。
       『新撰字鏡』に「椎、奈良乃木也・しい、ならのきな
       り」「楢、波々曽乃木又奈良乃木」とあるそうです。
       椎 = 楢(なら)= 波々曽(ははそ)か?

●あまりにも有名な歌です。謀反の罪を着せられた有間皇子が、大和から紀伊へ護送される道中で詠んだ失意の歌とされています。この歌に詠まれている飯(いひ)を自分が食べるのか? 食べないのか? で解釈ががらりと変わりそうな歌であります。また、有間皇子は同時に次の歌も詠んでいます。わが身の安全を心配する心情が吐露されています。

 磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば またかへりみむ

紀伊の国の磐代の、浜辺の松の枝を引き結んで、もし自分が無事であったならば、再びここに立ち帰ってきて、この松の木を見たいです。生きて帰れないかもしれないという不安のなかで詠んでいるのです。

●新日本古典文学大系より引用
「有間皇子は、斉明天皇に対する謀反の咎によって、斉明天皇4年(658年)11月5日、蘇我赤兄に捕えられた。9日、天皇の湯治先、紀の湯に護送されて皇太子中大兄の尋問を受け、翌10日藤白坂(ふじしろのさか)で絞首された。(日本書紀)この歌は紀の湯へ護送の途次岩代で作られたもの」

【主に2種の解釈説があります】

(1)家におるときはいつでも茶碗(笥・け)にメシを盛って食事をしていたのに、今は護送される途上だ。枯れ草を集めて束にし、それを枕にして夜を明かす旅路の身なので、しかたがなくメシを椎の葉に盛って食べよう。(ああ、なさけないという気持ちが溢れている)

(2)家に居るときはいつでも、神祀りの際に丁重に器に盛ってお供えする飯を、旅路の途上であるから止むを得ず、シイの葉を採取してそれを器としそれに盛ってお供えします。(ああ、神様、私の無実を晴らしてください。どうかお助けください。という気持ちがにじみ出ている)

(3)メシ(蒸した強飯・こわいいだと思います)を盛ったのは、シイの葉ではなく、ナラの葉だ。コナラ・ナラガシワあたりか? ミズナラではないと思います。(ミズナラは近畿では1000mぐらいの山に行かないとないのです)あるいは「ははそ」の木? 「ははそ」はブナ科コナラ属の総称? 古名?

●さて、怪しげな検証です。“実験考古学”という学問領域があります。実際に石器や縄文土器などを作って、それらを使用し、考察検証するものです。で、次の写真のものはさしずめ “実験国文学解釈(上代)” と言うべきでしょうか?
万葉シイの葉めし?(味噌汁つき)
↑多分これはあり得ないでしょうね。自分が食べる食事であるのならば、シイの葉に盛るはずがない…。シイの葉では小さすぎます。こんな「ままごと」みたいなことをする筈がありません。ご飯(たぶん当時は甑(こしき)で蒸した強飯・こわいい)を盛るにはもっと大きな葉が必要です。古代から食器の代わりによく使われたのは「カシワ」とか「ホオ・もくれん科」の葉です。カシワは柏餅として現代にまで残っています。

シイの葉に餅を盛ってみた
↑シイの葉に餅を載せてみました。餅は飯(いひ)の替わりです。古代ではコメは貴重品で、たとえ神様にお供えするにしてもそう沢山は祀れません。それで旅の道中であるということもあり、シイの葉に飯を少しだけ祀ったのであろうと考えられます。写真は現代風であって古代では祭具はまた違うとは思いますが、旅にあるので道具もなくシイの葉に盛りました。ホオの葉は大きいのでこれを使用すると飯が沢山要ります。で、飯を節約するためにも小さなシイの葉なのです。

よって、(2)の解釈を私は支持したいと思います。
メルヘンの世界へと誘う、テングタケ科 「タマゴタケ」
●夏から秋にかけての時分に、諭鶴羽山系ではシイやカシなどの常緑広葉樹林の林床で、しばしば見られるキノコです。真っ赤な「かさ」と白い「つぼ」のコントラストが実に印象的で美しいきのこです。とくに幼菌では日の丸の国旗を連想するような面白い配色であります。なんともあでやかな美しい色です。メルヘンの世界にいざなうような印象的なキノコです。

●さて、きのこの観察をされたことのない方は、毒々しいと感じられる人もいるでしょうが、これは食用になります。世間一般に “食用キノコは地味な色で、毒キノコは派手な色なのだ” という風評・迷信が流布していますが、全くの誤りです。タマゴタケはそんな根拠なき迷信を打ち破ることができる有名なキノコなのです。

しかしながら、テングタケ科テングタケ属(アマニタ)に属するきのこです。アマニタには大人の致死量が1本というドクツルタケなど著名な猛毒菌をたくさん含む分類群です。タマゴタケと紛らわしいキノコはないのですが、よほどの同定力がないかぎり、手を出さない方がよろしいです。(不用意に手を出すという安易な姿勢が、やがて重大な事故につながる危険性をはらむ)

●お断り 拙ブログの記事をご覧になってキノコに興味をもたれ、その結果、不用意な試食等によってキノコ中毒に遭われたとしても、当方一切の責任を負いかねますのでご了承ください。キノコに関する専門家が運営していて定期的にキノコ採集観察・同定会が行われている会で、近畿圏の主なものには次の会があります。興味のある方はそのようなキノコ観察会に参加されるといいでしょう。(ただし、いずれもキノコを食べることを主たる目的にした会では全くなく、あくまで “キノコの生物学” を学ぶ会のようです)
日本菌学会西日本支部
関西菌類談話会
幼菌の会 (京都市)
兵庫きのこ研究会 (神戸市)
↑兵庫きのこ研究会のトップページに見事なタマゴタケの写真があります。傘の放射状の溝線がよくわかる写真です。

タマゴタケの幼菌
↑最初白い小さな卵のようなものが出てきて、その卵の先端が割れます。そしてご覧のような赤い傘が急激に生長します。タマゴタケは卵茸の意味で、この名称の由来は申すまでもないでしょう。
写真の物は、9月17日に、諭鶴羽山の海抜470mぐらい、ウバメガシ・アカガシ・シイの林で見つけました。これらのブナ科の樹木の根に菌根を作って共生しているのだろうと思います。

タマゴタケの成菌
↑これは成菌の段階を通り過ぎて、老菌となり自然に倒れていました。柄(え)は黄色の地に帯赤色の “だんだら模様” があります。柄の上部に橙黄色の “つば” という膜のようなものがあるのですが、写真の物はそれが柄に密着してしまって非常に分かりにくくなっています。傘の裏側(写真で見えている方)の “ひだ” の色は黄色っぽいです。傘の表面は赤いのですが、傘の周辺部分には放射状の溝のような線があります。(うっかり、傘の表の写真を撮り忘れた)
ユリ科「ノシラン」の観察
ノシランは庭によく植えられるそうですが、淡路島には点々と自生品があるようです。洲本市の炬口八幡神社の裏山にあるものは有名です。ナチュラリストの間ではよく知られています。先日、津名に行く用事があってついでに寄りまして観察したのですが、日当たりが悪く生育不良になっているような気がしました。
小林先生の『淡路島の植物誌』によると、この神社の社叢林にあるものを最初に標本にしたのは故細見末雄先生で、1970年代ごろ淡路島に来島され柏原山など精力的に植物調査をしたようです。淡路島の植物は大部分は島外の専門家等が調査しています。(島の在住者はみな植物分類学・植物形態学・植物地理学などの門外漢の素人ばかり。にもかかわらず先生づらしている輩がいます。でも、その人に聞いたら標本は作っていないとのこと。標本も作らずに先生づらしてはいけない…。恥ずかしくないのだろうか?)

余談ながらいつも思うのですが、わが南あわじ市が学識経験者の意見を聞く必要が生じたとき、小・中学校の先生が出てきます。これには違和感が否めません。小・中学校の先生は教育者ではあっても研究者じゃありません。神戸市など都会では学識経験者というのは大学教授などの専門家が出てきます。ホントに田舎じゃ専門家でないものが専門家づらしたり、先生でない者が先生づらしています。井の中のカワズ…、じゃなかろうか?

諭鶴羽山系でもごく僅かですが、ノシランの自生があるようです。私も2か所見つけていますが、この植物をシカ(鹿)が食べるようです。シカの食害跡がありました。

『日本のレッドデータ検索システム』によると11の府県でノシランの絶滅危惧性について言及しています。

『兵庫県レッドデータブック2010』ではノシランをBランクの貴重植物に評価しています。

ノシラン
↑ユリ科のノシランです。ちょっと見た感じはヤブランに似ていて、大きな株になります。しかしながら花の色が白で、ヤブランのように紫色ではありません。花があれば見間違うことはないでしょうが、葉を見ただけでは間違える恐れが多分にあります。

ノシランの花
↑ノシランの花は白で、花期は9月上旬~中旬ころです。花が付いている花茎は扁平であるのが特徴です。名古屋名物の「きしめん」みたいに平べったいのです。
ノシランの和名の起源は、その線形の葉が熨斗(のし)に似ているからとも、あるいは扁平な花茎が似ているからとも言われているようですが、おそらく葉ではないと思われます。ヤブランなどこの手の植物は葉の広狭はあっても似たようなものです。葉が際立った特性をもたないから、明らかに花茎が似ているからだという説に軍配が上がりそうです。花茎が槌でびしゃいだように扁平なことが本種のアイデンティティーといえましょう。

三重県国崎町町内会HP 「伊勢神宮献上の熨斗鮑(のしあわび)」
「熨斗・のし」というのは本来「熨斗鮑・のしあわび」のことです。海の岩礁地帯に生活しているアワビの身を紐状に削いで乾燥させたものです。乾物の「かんぴょう」みたいなものです。かんぴょうをスルメのような感じにしたものです。(昔、リンク先の「御料鰒調製所」に研修に行ったことがあります)
熨斗は紐状であっても多少は厚みがあり、紙のように薄くはありません。したがいまして、ノシランの和名の起源が “その葉が熨斗みたいだ” などという説は明白に誤りであります。

淡路島・志筑で 「24時間雨量」 がなんと425ミリ!   台風ロウキー(T1115)の影響で記録的豪雨。
●淡路島で9月19日の18時頃から降り始めた雨は、降雨強度50~70mm/hをまじえて土砂降りでした。淡路島各地で、積算雨量が軒並み300~500㎜に達しました。各地で避難指示が出るなど大変なことになった模様です。三原川河口付近では車が水没するなど被害が出たという情報が伝わってきました。
このたびの雨は台風ロウキー(T1115)による直接の雨というよりも、台風によって刺激された秋雨前線による雨が主力のようでありました。台風本体の雨雲がかかってからの降水量は淡路島ではごく僅かでした。

淡路島各地の積算雨量は次の通りであります。台風ロウキーの影響の大雨は淡路島北部で500ミリに達しています。淡路島の太平洋沿岸の沼島・灘土生・相川・由良では162~246ミリで比較的に少なくなっています。兵庫県北部に秋雨前線があり、そこに吹き込む暖湿流によるクラウドクラスターが淡路島北部で発達したような感じでした。

●9月19日18時 ~ 9月20日17時の積算雨量です。と言うことはこの数字がそのまま24時間雨量となります。【追記】()内の数字は雨のほぼ降り止んだ21日12時の積算雨量です。単位は㎜です。

仁  井  316(418)    成相ダム   300(388)
郡家気象  354(443)    北富士ダム  306(402)
都  志  316(370)    大日ダム   319(386)
志  筑  413(500)    牛内ダム   306(394)
洲  本  358(448)    分 水 堰    266(341)
洲本気象  317(410)    諭鶴羽ダム  306(382)
帰  守  306(380)    諭鶴羽山   281(367)
由  良  144(208)    阿  万   254(340)
相  川  103(162)    灘 土生   188(246)
沼  島  117(179)

淡路島各地のリアルタイムの雨量を見るのは次のサイトです。
国土交通省 「川の防災情報」 観測所選択 (兵庫県淡路島)

淡路島の観測所の統計的な雨量データを見るのは次のサイトです。
気象庁 アメダス表形式 (兵庫県) 淡路島にはアメダス観測所は洲本・郡家・南淡の3か所があります。

24時間降水量の全国ランキング
↑気象庁のホームページから。今日の全国観測値ランキング(9月20日) 16時10分現在のものです。

10分ごとに更新されていくので、ランクが変わる可能性が大いにあります。あくまで、16時10分現在のランクですが、なんと5位に淡路島・郡家が、10位に淡路島・洲本がランクインしています。全国に雨量観測をするアメダス観測所は1400ヵ所ほどあるのですが、淡路島の観測所がランクインするのはめったにありません。これをみても凄い豪雨だったことが分かります。

●志筑の413ミリというのは、気象庁のアメダス観測所ではないのでランク付け対象外ではありますが、第3位に相当する凄いものです。(その後確認をすると、20日04時~21日03時の「24時間雨量」は425ミリになっています)

志筑の降水量の推移
↑国土交通省川の防災情報サイトから。淡路島・志筑での2011.9.20豪雨の降雨推移のグラフです。グラフの期間は19日21時から20日20時までの24時間です。20日朝に70ミリ前後の時間降水量が3時間続いたことが分かります。

時間降水量のデータ
↑国土交通省川の防災情報サイトから。毎正時ごとの時間降水量の表です。未明の4時から(実際は3時から)10時までの7時間に328ミリの雨が降っています。この間の平均降雨強度は46.8㎜/hで、凄まじいものだったのではないかと思います。

2011.9.20豪雨による山崩れ
県道を塞ぐ
↑南あわじ市灘円実です。灘土生での雨量は246ミリと志筑の500ミリの半分でしたが、あちこちの山の斜面の表層の土砂が崩れ落ちました。大きなクスノキが土砂とともに落ちて、電柱をなぎ倒し海岸の県道を塞ぎました。そのため3時間の停電と電話の不通が発生しました。(写真は22日朝撮る)

「魚つき林」について考える (その5)        ――豊饒な森林の前には魚つき林は意味がない――
●森林資源量の推移です。(1951年~2007年の56年間の推移)
森林資源量の推移
↑『森林・林業白書』平成22年版13ページから。

●森林蓄積の推移です。(1966年~2007年の41年間の推移)上の図表の折れ線グラフの部分を抽出して、棒グラフに変換したものです。こちらのほうが重要です。森林の生長(樹木の材の太り)が分かるのです。
森林資源量の推移
↑『森林・林業白書』平成23年版56ページから。

図表の引用元をご覧になるには次をどうぞ。
『森林・林業白書』平成22年版 第Ⅲ章 多様で健全な森林の整備・保全
『森林・林業白書』平成23年版 第Ⅲ章 多様で健全な森林の整備・保全

●さて、上の2枚の図表から読み取れる重要なことがいくつかあります。年々、日本の森林は豊かに繁茂しているということです。

(1)我国の国土面積は3779万haですが、そのうち約2500万haが森林です。この森林面積は戦後56年間ほとんど増減がありません。一定しているわけです。森林率は66%程度で、世界有数の森林大国であります。

(2)森林面積の構成比には大きな変化があります。人工林が増加して、1951年の493万haから1986年には1022万haに倍増しました。しかしその後は変化はありません。一番目のの図から、人工林の新規の植林が昭和30年代と昭和40年代に爆発的に行われたと思われます。面積は大雑把に500万ha、国土面積の14%。

(3)逆に、天然林とその他の面積が、1951年には約2000万haあったのに、1986年には約1500万haに減少しています。これは天然林を伐採して人工林の植林をした結果でありましょう。1986年以降は、人工林を伐採した跡に植林をすることはあっても、天然林を伐採してまで新規の植林をしていないものと推定できます。

(4)人工林は増加したけれども、依然として天然林のほうが面積は大きい。大雑把に言って人工林は1000万haであるが、天然林その他は1500万haあります。

(5)森林の蓄積量ですが広葉樹でも針葉樹でも幹がどんどん太ると蓄積量は増加します。1966年から2007年の41年間に、天然林は13.2億立方m → 17.8億立方mと1.35倍に増加。人工林は5.6億立方m → 26.5億立方mと4.7倍に増加。この林野庁の算出した数字を信ずるならば、どちらも素晴らしい伸びで、とくに人工林(スギやヒノキ等)が劇的な増加です。このことは森林が鬱蒼と茂ったことを表しています。

     **********************

●さて、実際に各地の山を経年的に観察しても、また色々な資料を参照して考えても、この国の森林は現在が歴史上もっともよく繁茂して豊かであるのは疑いようがありません。根本的な理由は人々が木を伐らなくなったということに尽きるかと思います。スギやヒノキの人工林も輸入木材との価格競争に太刀打ちできないので林業という産業が崩壊寸前です。円ドル相場が雄大な円高トレンドが続いているので、いよいよ外国木材に太刀打ちできないでしょう。人工林も伐るだけ損になるので放棄されています。山の樹木は伸び放題、茂り放題です。

ところで、人工林の間伐の遅れのため人工林が荒廃しているなどと問題視する向きがあります。一応たしかにその通りです。しかしながら、本当のことをいえば人工林(スギやヒノキ林)は森林ではありません。畑です。大根畑とかキャベツ畑とか言うように、スギ畑とかヒノキ畑というのが正しい表現です。したがって、荒廃しているのではなく畑の管理がおろそかになっているのです。畑に1本の雑草も生やさないのが篤農家です。雑草は恥ずべき怠惰の象徴であります。間伐が遅れることは林野庁も林業家も恥じ入るべきことなのに、地球温暖化とか色々な阿呆な理由をならべて「予算をよこせ! 補助金をくれ!」などと主張しています。自己の怠惰を棚に上げて泥棒根性・たかり根性まるだしです。
(この問題は複雑なので、稿をあらためて考察したいと存じます)

ほうっておいても大丈夫です。そもそも林業は「計画的密植」で植林しています。1.8m間隔で1haあたり3000本の苗木を植えます。余分に植えておいて、生育の悪いものや幹の曲がったものなど間引いていくのです。本来の植物社会では “自然間引き” というメカニズムが働くのですが、同じ大きさの苗木を植えているので自然間引きがおこなわれません。これが間伐が必要になる理由ですが、放っておいたらどうなるか? モヤシになります。隣同士の木がご互いに陰になって、ひょろひょろとモヤシになり生育不良、やがては共倒れで枯れてしまいます。その後にすかさず広葉樹が侵入してくるでしょう。スギやヒノキの植林が枯れたあとにはあっという間に広葉樹の森に回帰することでしょう。それが自然の摂理なのです。
そもそも針葉樹(マツ・スギ・ヒノキなど)は本来の自然分布はかなり限定された場所にしかありません。亜高山帯とか、痩せ尾根・岩角地とか、潮風のあたる海岸とか、そもそも広葉樹の育ちにくいところにあるのです。条件のいいところでは広葉樹との競争に簡単に破れます。瀬戸内海沿岸地域のマツ林が枯れて、あっという間に照葉樹林が回復したのを見ればよくわかると思います。そもそも日本国中スギやヒノキを一辺倒に植えるのは無理があったのですが、放置したところで広葉樹林に回帰するだけで、べつに騒ぎ立てる必要はありません。

●さて本題の「魚つき林」に意味はあるのかどうか? の考察です。

●「魚つき林」はその起源は古く、江戸時代にまで遡ります。森林破壊が著しかった近世~近代においては大いに意味がありました。(食糧不足で餓死者が出ているときに、食糧増産を叫ぶのは意味がある)

●現代では日本列島は北から南まで森林が回復し、樹海がひろがっています。そういう状況では「魚つき林」を植林せよと叫んでもあまり意味がありません。たんなるパフォーマンスにしか過ぎないということです。(食糧が十分にあって肥満者がみちあふれているときに、食糧増産を叫んでもあまり意味はない)
「魚つき林」について考える (その4)        ――燃料革命から早50年、劇的に森林が回復――
歴史上、この国の森林は江戸期から明治時代、そして終戦直後まで破壊され尽くして、各地に「はげ山」が広がっていました。しかしながら、昭和30年代に燃料革命が起こり、家庭の燃料にはガスや灯油が普及しました。そのため薪や木炭が要らなくなりました。山村ではかつては薪や木炭は貴重な現金収入を得るための商品で、都会にそれを出荷していました。山村経済は崩壊し、人々は都会に流出せざるを得なくなりました。また、薪炭に替わる産業としてシイタケなどのきのこ栽培が奨励されたり、山の斜面での果樹栽培や、湧水を利用して渓流魚の養殖など手掛けるところもありました。

この燃料革命ののちは、里山であろうと奥山であろうと人々は山に入らなくなりました。化学肥料が普及し、山の落葉掻きも行われなくなりました。で、山の森林は茂り放題なのです。かつて森林破壊が激甚だった近畿中部や瀬戸内海沿岸地方などでも、急速に森林が育ち本来の植生に帰ろうとしています。その回復力たるや見事なものです。
一時、アカマツが枯れるとか衰退するとか問題視する向きもありました。しかしながら、アカマツ林は森林が破壊されたあとに成立する植生です。アカマツははげ山に付随するものなのです。はげ山の植生が回復する初期にアカマツが生じます。瀬戸内地域でも森林が回復してくるとやがて常緑の広葉樹林が成立します。その回復初期から広葉樹が成立するまでの過渡期にアカマツが生じるのです。その大きな理由の一つが、アカマツ・クロマツと共生する菌類(菌根菌)が腐植質の土壌を嫌うということがあります。マツ類と共生する菌類がはげ山のきれいな土、すなわち腐植質や肥料分を含まない単なるミネラルの粉のような土を好むのです。森林が回復して腐葉土の厚い層が出来るころには地中の菌類のフロラが変化し、マツ類の樹勢衰退に拍車がかかります。
(このあたりの事情は、小川真著『マッタケの生物学』が最高の参考書です。名著だと言われています)

森林の過度な利用や伐採 → 表土流出・山腹崩壊 → はげ山化 → 禁伐などの保全 → マツ類の侵入 → マツ林成立 → 広葉樹の侵入 → マツ類の消滅・広葉樹への交替 → 暖温帯の広葉樹林(照葉樹林)の回復

瀬戸内海地域では、ごく大雑把に見るとこのような経過をたどります。これが自然の摂理であり循環です。マツ枯れを騒ぎ立てる連中は、生態学者の小川真先生の論文や著書を読んで自然の摂理を学ぶ必要があります。また、里山の樹木が生い茂っているのを見て「山が荒れている」などと愚かなことを言う役場の連中も、遷移のメカニズムなど生態学の基礎を学ぶ必要があります。

国土面積の約3分の2をしめる25万平方キロメートルの我が国の森林は、いま急速に回復しつつあります。それを荒廃しているなどと妄言を言うのは、いかに自然を観察していないのか馬脚を現しています。ただし、森林が極相林という安定的な状態に至る途上においては、いままで生育していた樹種が一斉に消えていくというようなことは起こります。が、それは「荒廃」というのとはまた別の現象です。もし今後森林を伐採さえしなければ、余計な手を出さなければ、あと50年か100年後には日本列島は鬱蒼たる原生林に覆われることでしょう……。
鬱蒼としげる照葉樹林
↑見渡す限りの暖温帯照葉樹林です。まさに樹海と言ってもいいでしょう。かつて40~50年前には炭焼きのために全山伐採されましたが、現在ではご覧のとおりの深い森に回帰しています。この森林は伐採跡に成立する “二次林” ではありますが、わずか数十年で極相林に近い様相を示しています。
シイやカシ類が密生する
↑海抜428mの山です。麓から山頂に至るまで鬱蒼とした森林に覆われています。森の中に分け入ると昼なお暗いと云う状態で、かつて丸裸に森林が伐採されていたとは想像もできないほどです。山中には無数の炭焼窯の跡があります。
山頂付近のものは樹齢が古い
↑よく見ると、山頂付近に樹高の差による “段差のようなもの” が認められます。これは50年前には山がパッチワーク状だった名残です。
薪炭用に森林を伐採するといっても、1年で皆伐するわけではありません。山を沢山の区画にわけます。その分割した区画を例えばA、B、C、D、E、……、などとすると、今年はAを伐採、来年はBを伐採、再来年はCを伐採……、という具合に順繰りに移動していくのです。そして20~30年ぐらいで一巡して元に戻ります。実際には行儀よく順番に移動するのではなく、飛び飛びにあっちを伐り、こっちを伐りという感じです。それで樹齢が最大限30年ぐらいで、さまざまな樹齢の区画がパッチワーク状になるのです。20~30年ぐらいで全山の森林を伐ってしまうのは、炭焼や薪にはあまり大径木では適さないからです。
「魚つき林」について考える (その3)        ――昔は薪(まき・たきぎ)や木炭しかなかった――
日本の森林の荒廃について、とくに歴史的な推移を考えるにあたり、参考になるサイト等を厳選してみました。本エントリーは参考リンクが多いです。

サイト「私の森.jp」さんの『日本の森の歴史』が、日本の森林破壊の通史的な概略をきわめて平易にまとめています。
↑このサイトがわかりやすくピカ一です。ざあーっと捜しましたがこれ以上のものは見つかりませんでした。ただ、一つの難点はサイトの主催者が「地球温暖化説」を盲信し自己の商売に利用していることです。地球温暖化騒動はもう終わっています。賢明なる方はもう気づかれていると思いますが、温暖化で地球が破滅するとあれだけ煽ったマスゴミも、最近ではほとんど言わなくなりました…。
サイト「森林・林業学習館」さんが林業全般について知るには良いサイトです。
↑このサイトは森林(人工林)について考えるのに参考になります。ただし林業という産業としての観点から森林を見ているので、商品としての木材が思うように生産できなければ、“森が荒廃している” と必要以上に強調するきらいがあります。
林野庁の『林業白書 平成22年度版』です。購入しなくてもネットで全文が閲覧できます。
↑森林面積などの詳しい数字を見るには白書がいいでしょう。

●紙の書物では何と言っても次の書物です。森林荒廃の究極の姿 “はげ山” の研究書です。はげ山について研究した唯一と言ってもいい書物です。千葉徳爾著『はげ山の研究』1956年刊。増補版は1991年刊。この書物の他には、森林荒廃とかはげ山について論考している本があっても、薄っぺらく程度が低いです。
“はげ山” を研究した唯一の本
↑質・量とも他の類書を圧倒しています。この本のすごいところは自然科学と人文科学の両面から問題にアプローチしていることです。難点は入手困難なことです。古書店でかなり法外な値段が付いています。写真のものはわたくしの蔵書です。20年前に増補版が出るという情報を得て出版社に予約を申し込んで手に入れました。

大阪府のHP 環境農林水産部 みどり・都市環境室 みどり推進課  森林整備グループが作成した治山事業の資料で、昭和初期から30年代の見事なはげ山の写真が見れます。
日本列島で特にはげ山が多かったのは、人口密集地帯の太平洋ベルト地帯の周辺の山々です。近畿中央部から瀬戸内海沿岸地帯は、雨量が少なく、母岩が花崗岩の風化した土が多く水はけが良すぎるし、大雨がふれば浸食されやすいのではげ山だらけでした。

NPO法人 森をたてようネットワーク様のサイトで、悪名高い足尾銅山のすさまじい森林破壊の写真が見れます。
江戸時代から各地で銅山が開発されて、山が削られ、燃料や坑木のために木が伐られました。また硫酸を含んだ煤煙の害で草木が枯れ果てました。銅山開発によるすさまじい環境破壊・森林荒廃で悪名高いのは、この「足尾銅山」と愛媛県の「別子銅山」です。別子銅山は閉山して40年ほど経ち、山の尾根の風衝地帯をのぞくと見事に森林が回復しています。

●昔は燃料は薪(まき・たきぎ)や木炭しかありません。
兵庫県伝統的工芸品『淡路鬼瓦』指定窯元 株式会社タツミ様のブログ
↑淡路島南部は窯業の盛んな土地柄です。江戸時代から瓦や陶磁器の製造が大きな産業になっていました。タツミ様のブログの写真を拝見すると、だるま窯でいぶし瓦を焼くには燃料にする大量の割木が必要なことが良く分かります。たぶんマツの木の割木だと思いますが、窯の周囲に大量に積み上げています。いまでは瓦や陶磁器を焼くのにガス窯とか電気釜とかに変遷していますが、昔は薪(割木)すなわち森林資源しかありませんでした。

●さて、江戸時代から明治期そして終戦直後まで、日本の森林は大量に伐採されてはげ山だらけでした。もちろん江戸幕府も明治政府も過度の森林伐採を政策的に制限したり、植林事業も推進しました。しかしながら、植林や樹木生長による生物現存量の増加よりも、伐採による収奪量の方が多ければ、森林はは荒廃していくのは避けられません。

昔は燃料と言えば薪や木炭しかなかったというのは必ずしも正確ではなく、石炭は奈良時代の『日本書紀』にもそれらしい記述があり、古くから “燃ゆる石” という名で石炭の存在は知られていました。江戸時代に北九州で薪の替わりに風呂の焚き物に石炭がくべられたという記録があるようです。また江戸期の瀬戸内海地方の製塩業の燃料に九州からの石炭が使われたというのも知られています。が、それは微々たる量でしょう。

そもそも石炭の総生産量が急増したのは明治後期からです。その総生産量の推移はつぎの通りです。昭和15年の5630万トンがピークで、その後昭和40年頃まで5000万トン前後の数字が続きます。江戸期や明治前半までは石炭の燃料としての比重は極めて低いのは明らかです。

明治7年 → 明27年 → 明37年 → 大正3年 → 大8年 → 昭和15年
21万トン 400万  1000万  2230万  3120万  5630万トン  

●江戸期には日本の総人口は3000万人前後を維持していましたし、明治に入ると、戦前のピークの7000万強に向かって人口の膨張が始まります。しかし生活や産業に使用するエネルギーの主力は薪や木炭で、これが森林破壊の圧力として大きな負荷をかけました。これが昔ははげ山だらけであった根本的な理由です。食事を作る煮炊も風呂をわかすのも薪(まき・たきぎ)です。暖をとるのは木炭です。製鉄や銅の精錬、瓦や陶磁器の窯業、瀬戸内地区の製塩、これら産業用の燃料にも薪や木炭が使われました。江戸時代には樹木の根っこまで掘り取られた記録が各地にあるようです。
それから、明治後期から石炭生産が盛んになったと言っても、家庭での燃料は依然として薪や木炭が主力で、それは戦後の昭和30年代のいわゆる “燃料革命” まで連綿として続きます…。  

それと忘れてはいけないのは、昔は田畑の堆肥として森林の林床の落葉や落枝や下草がことごとく掻き取られて持ち去られました。化学肥料など無かった時代ですから、土作りにそうしたのです。僅かにあった肥料らしいものは “干鰯・ほしか” ぐらいのものです。あとは自給の草木灰や下肥です。この森林の落葉・下草掻きが森林破壊の大きな要因の一つです。 (本稿は更に続きあり)
「魚つき林」について考える (その2)          ――昔の森林破壊をどうやって調べるのか?――
昔の植生を知る手掛かりはいろいろあります。古文書・絵図・地形(天井川の存在)・言い伝え・花粉分析など。明治時代になると写真があります。文明開化の波がいち早くやってきた神戸では裏山の六甲山(932m)を撮った写真が残されています。そんな古い写真から明治期の六甲山は “はげ山” だったことが分かります。これら古い時代の植生を知る手掛かりを全て取り上げるのは、素人の私には手に負えませんので、絵図についてだけ申しのべてみましょう。

環境問題を声高に叫んでいる連中は、森林が破壊されている! などといいますが、全くの認識誤りです。2011年の今は日本の歴史上でもっとも森林がよく茂って豊なのです。(ただし、縄文・弥生まで遡ると話は別ですが)人間というものはいったん先入観にとらわれてしまえば、当たり前のことでも見えなくなるのは不思議なものです。この国の森林の破壊が目立ってきたのは500年前ごろからで、江戸時代には各地で “はげ山” だらけだったのが古い記録でわかります。この国の森林の破壊がピークになったのは、太平洋戦争中から終戦直後あたりだと言われています。軍需用に大量に木材が必要になったのと、戦後の復興にも木材が要ったからです。

江戸時代の山を描いた絵図
↑『淡路国名所図会』嘉永4年(1851年)出版より。
昔は写真がなかったので、絵師という職人がさし絵を描きました。この絵に描かれている場所は、現在の地名では南あわじ市灘のスイセン郷の近くです。元吉野と言って平安末期の天台宗の僧の明雲僧正(みょううんそうじょう)が隠れ潜んだ所と伝えられています。

●このような絵図から江戸時代末期の植生が読み解けるのです。べつにこの絵図でなくてもいいのですが、これを選んだのは私(山のキノコ)が付近の地形は植物観察で谷から尾根まで歩き尽くしてよく知っているからです。この絵は明らかに船で少し沖合から山を眺めて描いた絵です。この絵から読み解ける重要なポイントは3つあります。

(1)描かれている樹木の輪郭からマツ(クロマツ・アカマツ)であることが分かります。松はパラパラと疎林状態で、主に尾根にあります。谷にはありません。マツ以外の樹木は描かれていません。

(2)山肌の小さな起伏が克明に描かれています。山の細かなヒダが描かれているということは禿げ山であることを示しています。もしこの山が森林で覆われていたならば山肌の細かな起伏は描けないハズです。(積雪が多いと地表がのっぺらぼうになるのと同じです。森林が細かな起伏を隠してしまう)

(3)山の斜面に草がはえているように描いています。尾根筋にマツがあり斜面には草が生えています。

つまり、この絵図は “はげ山” の絵なのです。マツの木は少しありますが、他の木はなく、もちろん森林もありません。森林が破壊され尽くした状態です。しかしながら草ははえている、ということです。

そもそも絵などというものは省略や誇張など技法を凝らすものであり、実物通りに描いていないのでは? という疑問もあると思います。それで、そこの地形をよく知っている所の絵図を持ち出したのです。これは、そこに、そのような風景があるから、あるように描いた “写実的な絵” です。

●江戸時代には沢山の書物が出版され、たくさんの絵図が残されていますが、描かれている山の絵図ははげ山ばかりなのです。樹木があるのはたいてい尾根筋だけなのです。マツの木が描かれていることが多いのですが、そもそもマツがあること自体がはげ山であることを物語っています。マツという針葉樹は競争に極めて弱く、広葉樹の森が生長してくるとマツは消えていきます。マツが沢山あるのは森林が破壊された証拠なのです。

豊かな森林に覆われた山
↑かつて45年以上前には炭焼きで定期的に森林が皆伐されていました。山肌がむき出しになっていますと、山には小さな尾根や谷が無数にあるのが良く分かります。しかしひとたび鬱蒼とした森林に覆われてしまうとそんな “山のひだ” は見えなくなります。近世の山を描いた絵図は細かな山のひだを克明に描いたものが多いです。つまり森林が伐採されて無いのです。
「魚つき林」について考える (その1)        ――魚つき林の植樹はたんなるパフォーマンス――
漁業関係者がよく言う “魚つき林” というものがあります。「山の森林が荒廃したら魚資源が減少する、したがって山に植樹することが魚資源の涵養につながるのだ」などというのです。それで各地に漁業者の森と称して植林が行われています。ただし植林面積はごく僅かで、単なるパフォーマンスにしかすぎません。日本の森林面積は約25万平方㎞であるのに対し、魚つき保安林面積は250平方㎞ですので、たった1000分の1にすぎません。焼け石に水。九牛の一毛。森林面積の千分の一の比率では無いも同然です。

森林総合研究所 「沿岸生態系:森林の魚つき機能」
↑これは政府系研究機関のサイトにある魚つき林の解説です。しかしながら、こんなのは随筆同然の文章です。「……証明するために使える可能性があります」とか「……両者が密接な関係にあることが解明されるかもしれません」とかの記述から読み取れるのは、科学的な証明はまだないということです。

論文検索で「魚つき林」をキーワードにして検索してみた。
↑いろいろと検索して調べてみましたが、“魚つき林” などというものを研究している研究者はほとんどいないし、論文もほとんど存在していないようです。我が国には広く見積もって約70万人もの研究者がいるとされていますが、魚つき林の専門家などいないわけで、わずかに、森林や水産関係の研究者が関連する事象として、ついでに「魚つき林」考察しているにすぎないということです。わずか数人しかない “魚つき林の研究者?” たちが書いた解説などをネットで探して読んでみると、魚つき林と漁獲との関連性・因果関係が科学的に実証されたわけではない、とハッキリ言っています。

「魚つき林」を植樹したと謳う立派な看板
↑この場所は南あわじ市賀集牛内川の奥です。ダム工事に伴って残土が沢山出ました。それを捨てる場所がないので山奥の谷に捨てられたのですが、谷は埋め尽くされました。当然ながらその谷にあった植生(森林)は破壊されました。先に森林を埋めて破壊しておいて、ぞの破壊後に “漁業者の森” を育成しようというのは全く矛盾です。いわばマッチポンプです。消防団員がマッチで火をつけて火事を起こし、さあ大変だ、消火だ、消防ポンプをもってこい…、というのと変わりません。

「魚つき林」ならぬ「魚つき草原」なのでは?
↑もと「魚つき林」だったのでしょうが、植樹した木は多くは枯れています。残っている木も生長が悪いです。ヤマモモの木を植えたようですが、樹種の選択は好ましいものだと思います。ヤマモモは窒素固定菌と共生する肥料木です。やせ土でもよく生育します。しかもシカの不嗜好植物ですので、シカの食害の心配がありません。(ときにはシカが食べることはありますが、積極的に食べるわけではありません)その理由は不明ですが植樹した多くのヤマモモが枯れています。

ヤマモモに替わって、ススキの立派な草原になっています。ススキの間にある背の低い草はレモンエゴマとかナルトサワギクなどです。このススキの原の端には『兵庫県レッドデータブック2010』でCランクの貴重植物とされるウスバヒョウタンボクが沢山あります。まもなくこのススキの原には、先駆植物的な樹木のタラノキとかニワウルシとかクロマツ等がどんどん侵入してくると思います。放っておいてもやがて勝手に森になります。

べつに植林する必要性などたいしてなかったのです。風散布の草の種子が飛んでくるのでじきに草原になります。鳥類が果実をたべて糞をおとし樹木の種子がもたらされます。草がはえ木が侵入し、年月をかけて森林に帰るのは自然の摂理です。土が雨で流亡しやすい急斜面ならば “種子の吹きつけ緑化工事” 等が必要になるでしょうが、この緩傾斜ならば放っておいても問題はなかっただろうと思われます。実際、ここは既にススキ等がびっしり繁茂しています。こうなると大雨でも土砂の流出はほとんどないでしょう。

つまり、この魚つき林の植樹は単なるイベントであり、パフォーマンスでしかなかったことが透けて見えているのです。たんなる “植樹まつり” をしただけで、森林育成が本当の目的ではなさそうです。それはその後に管理の手を入れた形跡が無いことから明らかです。もしかしたら、補助金が出たからそのカネを消化しようとしてやっただけかも…? 苗木にしても看板設置にしてもタダの筈がないです。どこからかカネがでている筈。金額はしれているでしょうが…。

●さて、先にリンクした解説文では、森林の魚つき機能として3点あげています。
(1)土砂の流出を防止して、河川水の汚濁化を防ぐ。
(2)清澄な淡水を供給する。
(3)栄養物質、餌料を河川・海洋の生物に提供する。

(1)と(2)は区別する必要がなく、高木層・亜高木層・低木層・草本層・蘚苔層・地中層の階層構造がよく発達した森林では、とくに広葉樹の自然林では、地表に厚い腐植質の層が形成されてふわふわの絨毯みたいになります。かなりの大雨でもスポンジが水を含むように吸収するので、大きな保水力があります。保水力があれば、水源を涵養し降った雨が一挙に海に流れるのではなく、長期にわたって少しづつ谷川に水を供給します。(1)と(2)については全く異存がございません。まったくその通りであると思います。
(2)については、栄養塩類の供給源は森林だけではなく、降雨そのもののなかにアンモニア態窒素や硝酸態窒素などが大量に含まれます。その起源は自動車の排気ガスだったり、工場の排煙だったり、火山ガスだったりといろいろのようです。また、田畑に大量の窒素肥料や燐酸肥料が施肥されますが、施肥した半分ぐらいは川から海に流出しているという見方もあります。森林以外に栄養塩類の供給源(見方を変えると排出源)があります。家庭の排水にも下水にも窒素やリンが大量に含まれています。むしろ栄養塩類の供給過剰で河川や内海の富栄養化がよく問題になります。それで(3)をただちに異存がございませんとは言えないのですが、しかし反対だというのではありません。

●実は必ずしも “魚つき林” を否定しようというのではなくて、それなりの大きな意味はあると思います。しかしながら問題は魚つき林に意味はあるのか? ないのか? などではありません。問題は、漁業者の森を育成しようという考え方や運動の背景です。今全国の森林が荒廃しているという認識のうえに立っているのが問題であろうかと思います。というのは日本は歴史上いまが最も森林が豊かであるというのが間違いないからです。環境問題や生物多様性が叫ばれ、なんとかしなければという風潮の中では、ほとんどの国民は森林が荒廃していると信じ込まされています。しかしながら実際は全く逆なのです。歴史上いまが最もよく森林が育っているのです。次のエントリーでそのことを敷衍しましょう。



間延びしたリングドーナツみたいな台風、そして牛歩台風へと変身。大台ケ原山で積算降水量が驚愕の2436ミリ!
(9月2日午後8時30分に記す)
わが淡路島は、台風の直撃あるいはそれに近い状況になっております。しかしながら、今回の台風(T1112・タラス)はなんか変な台風です。まるでドーナッツのような台風です。真ん中の穴がやたらと大きいのです。目が大きいといってもいいでしょう。ラジオを聞いていましたら、アナウンサーが “大型で強い台風” だと一日中叫んでいます。たしかに大型で強い台風ではありますが、台風の中心周辺が間延びした締まりのない台風という印象がします。

まもなく夜半過ぎの3日の午前3時ごろに室戸岬周辺に上陸し、午前6時ごろ淡路島に最接近するでしょうが、300キロ離れている現在(2日午後8時)のほうが風雨が強く、台風が接近する方が逆に雨が止んで風も収まってくるという気がいたします。(注意、これは予報ではありません。天気図等を見て勝手にそう思うという単なる感想です)

大山鳴動してネズミが2、3匹。淡路島はおそらくほとんど被害がないであろうと、想像しています。淡路島はそんなに雨も降らず風も吹かないから、枕を高くして寝られるでしょう…。
でも、紀伊半島の大台ケ原山は大変なことになっています。8月30日21時から降り始めた累積降水量は2日午後8時で1167㎜に達しています。

●その後、9月3日11時には、大台ケ原山の累積降水量は、なんと1684㎜となっています。
●さらに、最終的に9月5日03時には、積算雨量は驚愕の2436mmなどという信じがたい数字になっています。ただ残念なのは大台ケ原山のアメダスが2009年に廃止されています。これは気象庁の管轄でない観測記録です。72時間雨量はすくなくとも1900㎜に達するという大記録が正式には残りません。
国土交通省【川の防災情報】テレメータ雨量 大台ヶ原(おおだいがはら)

●台風タラス(T1112)による積算降水量の最大値は、気象庁管轄のアメダスの奈良県上北山で1808㎜ですが、国土交通省川の防災情報観測所では4か所でそれを凌駕しました。(8月30日21時~9月5日03時)
1位 奈良県・大台ケ原山 2436㎜
2位 三重県・父ケ谷   1875㎜
3位 奈良県・河合(砂) 1861㎜
4位 奈良県・河合(雨量)1834㎜

2011.9.2  15時の地上天気図
↑1000hPaの等圧線の直径が1000キロもありそうな巨大なわりに中心気圧が低くないです。しかも980hPaの等圧線の円の中よりも周辺の方が等圧線が混み合っています。つまり気圧傾度力が中心よりもかなり離れた周辺のほうが大きく、したがって中心付近よりも周辺の方が風が強そうです。

2011.9.2  13時の衛星可視画像
↑衛星画像をみても中心がだらしなく間延びしています。台風の目が巨大すぎ。軽く九州がスッポリと入るくらいの広い範囲に、発達した雨雲がありません。中心より大分はなれたところに白く輝く雲のリングが見られて、ちょうどリングドーナッツの輪みたいになっています。

9月2日 午後6時のレーダー・ナウキャスト
↑レーダー・ナウキャストをみても台風の中心の周りに降雨をもたらす雨雲がありません。つまり台風が近づくと雨がやんでくるのが素人でも読み取れる。

9月2日 午後6時 淡路島周辺
↑南東気流がぶつかる紀伊半島の南東斜面と、四国山地の南東斜面が激しい雨のようです。しかしながら、わが淡路島は紀伊山地という屏風の陰であまり雨が強くありません。これはいつものことです。大雨になるかどうかは地形が大きく関係しているということが、良く分かる画像です。以上、4枚の写真は気象庁のHPから。

●2日21時30分に追記
気象庁、大型で強い台風12号について珍しいドーナツ形と発表 警戒呼びかける
午後4時半ごろに記者会見で気象庁が、台風12号は巨大ドーナツ形台風だと説明していたようです。わたくしは今日は半日気象庁のHPばかりを見ていましたが、HPではドーナツ形台風などと言う記事はどこにもありませんでした。(念のため、台風第12号に関する情報の第58号から第68号まで再確認しましたが、ドーナツ形台風などの記述はありません) 記者会見で言うのならば事前か同時にHP上で発表すべきではないのか? 時代はインターネット時代になっていますから、まずHPで情報をアップ、次にテレビとすべきです。国民の多くが直接に気象庁のHPを見ているのです。気象庁サイトは大人気です。だから、“ネット優先、テレビなど後回し” ひょっとすると、一般に分かりやすく説明するためにあえてドーナツ形台風と比喩をしたのであって、「ドーナツ形台風」は正式な気象用語じゃないのではなかろうか? つまり文字で記述する正式なHPではその言葉を使わないのか?
気象庁サイト「気圧配置 台風に関する用語 」

●3日12時に追記 台風タラス(T1112)はドーナツ台風から、牛歩台風に変質しました。
タラスが陸地に接近して室戸岬を指呼の間に見るところまで北上した2日21時ごろから、ドーナツ化した中心は急速に崩壊しました。そしてもともとゆっくりとした速度であったのがいよいよ牛歩台風となりました。
高知市と室戸岬の中間あたりに上陸した模様です。上陸の少しまえに、高知地方気象台で2日23時に979.3hPa、室戸測候所で2日19時に976.1hPaの気圧を観測していますが、台風がいよいよ上陸した未明のほうが気圧は僅かに上昇しています。

淡路島内の3日12時の時点での降水量は次の通りです。
アメダス……………郡家157㎜、南淡145㎜、洲本131㎜。
川の防災観測所……北富士ダム229㎜、帰守201㎜、都志196㎜、
         諭鶴羽山173㎜、志筑150㎜、など。

●9月4日午前1時に追記、ゆっくりとした牛歩台風のために長い時間降雨がつづきました。大台ケ原山では4日01時時点の積算降水量は、なんと2135㎜になっています。まだ降り続いています。紀伊半島の南東斜面はものすごいことになっています。それに四国東部の山岳地帯もすごいです。台風タラス(T1112)はどちらかと言うと雨台風となりました。9月2日と3日の日最大瞬間風速の全国ランキングは、1位が室戸岬の35.7m、2位が南紀白浜の35.0m、3位が和歌山県川辺の34.4mです。風はまったくたいしたことがありませんでした。
淡路島の風速記録は、最大瞬間風速で、洲本20.8m、南淡22.0m、郡家21.1mでした。瓦も飛びませんでした。

●淡路島も全島的に大雨です。このたびの台風の降水量は次の通りです。9月4日15時現在。最大は北富士ダムの415ミリです。
仁井399ミリ、 郡家365ミリ、 志筑379ミリ、都志331ミリ、 
洲本317ミリ、 洲本気象314ミリ、 由良218ミリ、
相川147ミリ、 帰守303ミリ、   成相ダム279ミリ、 
北富士ダム415ミリ、大日ダム304ミリ、牛内ダム281ミリ、
分水堰333ミリ、諭鶴羽ダム374ミリ、諭鶴羽山341ミリ、 
灘土生156ミリ、 阿万221ミリ、  沼島218ミリ
南淡阿万214ミリ、 沼島209ミリ、 
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