雑想庵の破れた障子
ぺんぺん草に埋もれた山中の雑想庵。 破れた障子の小さな穴から見えるものを綴ります。
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「魚つき林」について考える (その5)        ――豊饒な森林の前には魚つき林は意味がない――
●森林資源量の推移です。(1951年~2007年の56年間の推移)
森林資源量の推移
↑『森林・林業白書』平成22年版13ページから。

●森林蓄積の推移です。(1966年~2007年の41年間の推移)上の図表の折れ線グラフの部分を抽出して、棒グラフに変換したものです。こちらのほうが重要です。森林の生長(樹木の材の太り)が分かるのです。
森林資源量の推移
↑『森林・林業白書』平成23年版56ページから。

図表の引用元をご覧になるには次をどうぞ。
『森林・林業白書』平成22年版 第Ⅲ章 多様で健全な森林の整備・保全
『森林・林業白書』平成23年版 第Ⅲ章 多様で健全な森林の整備・保全

●さて、上の2枚の図表から読み取れる重要なことがいくつかあります。年々、日本の森林は豊かに繁茂しているということです。

(1)我国の国土面積は3779万haですが、そのうち約2500万haが森林です。この森林面積は戦後56年間ほとんど増減がありません。一定しているわけです。森林率は66%程度で、世界有数の森林大国であります。

(2)森林面積の構成比には大きな変化があります。人工林が増加して、1951年の493万haから1986年には1022万haに倍増しました。しかしその後は変化はありません。一番目のの図から、人工林の新規の植林が昭和30年代と昭和40年代に爆発的に行われたと思われます。面積は大雑把に500万ha、国土面積の14%。

(3)逆に、天然林とその他の面積が、1951年には約2000万haあったのに、1986年には約1500万haに減少しています。これは天然林を伐採して人工林の植林をした結果でありましょう。1986年以降は、人工林を伐採した跡に植林をすることはあっても、天然林を伐採してまで新規の植林をしていないものと推定できます。

(4)人工林は増加したけれども、依然として天然林のほうが面積は大きい。大雑把に言って人工林は1000万haであるが、天然林その他は1500万haあります。

(5)森林の蓄積量ですが広葉樹でも針葉樹でも幹がどんどん太ると蓄積量は増加します。1966年から2007年の41年間に、天然林は13.2億立方m → 17.8億立方mと1.35倍に増加。人工林は5.6億立方m → 26.5億立方mと4.7倍に増加。この林野庁の算出した数字を信ずるならば、どちらも素晴らしい伸びで、とくに人工林(スギやヒノキ等)が劇的な増加です。このことは森林が鬱蒼と茂ったことを表しています。

     **********************

●さて、実際に各地の山を経年的に観察しても、また色々な資料を参照して考えても、この国の森林は現在が歴史上もっともよく繁茂して豊かであるのは疑いようがありません。根本的な理由は人々が木を伐らなくなったということに尽きるかと思います。スギやヒノキの人工林も輸入木材との価格競争に太刀打ちできないので林業という産業が崩壊寸前です。円ドル相場が雄大な円高トレンドが続いているので、いよいよ外国木材に太刀打ちできないでしょう。人工林も伐るだけ損になるので放棄されています。山の樹木は伸び放題、茂り放題です。

ところで、人工林の間伐の遅れのため人工林が荒廃しているなどと問題視する向きがあります。一応たしかにその通りです。しかしながら、本当のことをいえば人工林(スギやヒノキ林)は森林ではありません。畑です。大根畑とかキャベツ畑とか言うように、スギ畑とかヒノキ畑というのが正しい表現です。したがって、荒廃しているのではなく畑の管理がおろそかになっているのです。畑に1本の雑草も生やさないのが篤農家です。雑草は恥ずべき怠惰の象徴であります。間伐が遅れることは林野庁も林業家も恥じ入るべきことなのに、地球温暖化とか色々な阿呆な理由をならべて「予算をよこせ! 補助金をくれ!」などと主張しています。自己の怠惰を棚に上げて泥棒根性・たかり根性まるだしです。
(この問題は複雑なので、稿をあらためて考察したいと存じます)

ほうっておいても大丈夫です。そもそも林業は「計画的密植」で植林しています。1.8m間隔で1haあたり3000本の苗木を植えます。余分に植えておいて、生育の悪いものや幹の曲がったものなど間引いていくのです。本来の植物社会では “自然間引き” というメカニズムが働くのですが、同じ大きさの苗木を植えているので自然間引きがおこなわれません。これが間伐が必要になる理由ですが、放っておいたらどうなるか? モヤシになります。隣同士の木がご互いに陰になって、ひょろひょろとモヤシになり生育不良、やがては共倒れで枯れてしまいます。その後にすかさず広葉樹が侵入してくるでしょう。スギやヒノキの植林が枯れたあとにはあっという間に広葉樹の森に回帰することでしょう。それが自然の摂理なのです。
そもそも針葉樹(マツ・スギ・ヒノキなど)は本来の自然分布はかなり限定された場所にしかありません。亜高山帯とか、痩せ尾根・岩角地とか、潮風のあたる海岸とか、そもそも広葉樹の育ちにくいところにあるのです。条件のいいところでは広葉樹との競争に簡単に破れます。瀬戸内海沿岸地域のマツ林が枯れて、あっという間に照葉樹林が回復したのを見ればよくわかると思います。そもそも日本国中スギやヒノキを一辺倒に植えるのは無理があったのですが、放置したところで広葉樹林に回帰するだけで、べつに騒ぎ立てる必要はありません。

●さて本題の「魚つき林」に意味はあるのかどうか? の考察です。

●「魚つき林」はその起源は古く、江戸時代にまで遡ります。森林破壊が著しかった近世~近代においては大いに意味がありました。(食糧不足で餓死者が出ているときに、食糧増産を叫ぶのは意味がある)

●現代では日本列島は北から南まで森林が回復し、樹海がひろがっています。そういう状況では「魚つき林」を植林せよと叫んでもあまり意味がありません。たんなるパフォーマンスにしか過ぎないということです。(食糧が十分にあって肥満者がみちあふれているときに、食糧増産を叫んでもあまり意味はない)
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「魚つき林」について考える (その4)        ――燃料革命から早50年、劇的に森林が回復――
歴史上、この国の森林は江戸期から明治時代、そして終戦直後まで破壊され尽くして、各地に「はげ山」が広がっていました。しかしながら、昭和30年代に燃料革命が起こり、家庭の燃料にはガスや灯油が普及しました。そのため薪や木炭が要らなくなりました。山村ではかつては薪や木炭は貴重な現金収入を得るための商品で、都会にそれを出荷していました。山村経済は崩壊し、人々は都会に流出せざるを得なくなりました。また、薪炭に替わる産業としてシイタケなどのきのこ栽培が奨励されたり、山の斜面での果樹栽培や、湧水を利用して渓流魚の養殖など手掛けるところもありました。

この燃料革命ののちは、里山であろうと奥山であろうと人々は山に入らなくなりました。化学肥料が普及し、山の落葉掻きも行われなくなりました。で、山の森林は茂り放題なのです。かつて森林破壊が激甚だった近畿中部や瀬戸内海沿岸地方などでも、急速に森林が育ち本来の植生に帰ろうとしています。その回復力たるや見事なものです。
一時、アカマツが枯れるとか衰退するとか問題視する向きもありました。しかしながら、アカマツ林は森林が破壊されたあとに成立する植生です。アカマツははげ山に付随するものなのです。はげ山の植生が回復する初期にアカマツが生じます。瀬戸内地域でも森林が回復してくるとやがて常緑の広葉樹林が成立します。その回復初期から広葉樹が成立するまでの過渡期にアカマツが生じるのです。その大きな理由の一つが、アカマツ・クロマツと共生する菌類(菌根菌)が腐植質の土壌を嫌うということがあります。マツ類と共生する菌類がはげ山のきれいな土、すなわち腐植質や肥料分を含まない単なるミネラルの粉のような土を好むのです。森林が回復して腐葉土の厚い層が出来るころには地中の菌類のフロラが変化し、マツ類の樹勢衰退に拍車がかかります。
(このあたりの事情は、小川真著『マッタケの生物学』が最高の参考書です。名著だと言われています)

森林の過度な利用や伐採 → 表土流出・山腹崩壊 → はげ山化 → 禁伐などの保全 → マツ類の侵入 → マツ林成立 → 広葉樹の侵入 → マツ類の消滅・広葉樹への交替 → 暖温帯の広葉樹林(照葉樹林)の回復

瀬戸内海地域では、ごく大雑把に見るとこのような経過をたどります。これが自然の摂理であり循環です。マツ枯れを騒ぎ立てる連中は、生態学者の小川真先生の論文や著書を読んで自然の摂理を学ぶ必要があります。また、里山の樹木が生い茂っているのを見て「山が荒れている」などと愚かなことを言う役場の連中も、遷移のメカニズムなど生態学の基礎を学ぶ必要があります。

国土面積の約3分の2をしめる25万平方キロメートルの我が国の森林は、いま急速に回復しつつあります。それを荒廃しているなどと妄言を言うのは、いかに自然を観察していないのか馬脚を現しています。ただし、森林が極相林という安定的な状態に至る途上においては、いままで生育していた樹種が一斉に消えていくというようなことは起こります。が、それは「荒廃」というのとはまた別の現象です。もし今後森林を伐採さえしなければ、余計な手を出さなければ、あと50年か100年後には日本列島は鬱蒼たる原生林に覆われることでしょう……。
鬱蒼としげる照葉樹林
↑見渡す限りの暖温帯照葉樹林です。まさに樹海と言ってもいいでしょう。かつて40~50年前には炭焼きのために全山伐採されましたが、現在ではご覧のとおりの深い森に回帰しています。この森林は伐採跡に成立する “二次林” ではありますが、わずか数十年で極相林に近い様相を示しています。
シイやカシ類が密生する
↑海抜428mの山です。麓から山頂に至るまで鬱蒼とした森林に覆われています。森の中に分け入ると昼なお暗いと云う状態で、かつて丸裸に森林が伐採されていたとは想像もできないほどです。山中には無数の炭焼窯の跡があります。
山頂付近のものは樹齢が古い
↑よく見ると、山頂付近に樹高の差による “段差のようなもの” が認められます。これは50年前には山がパッチワーク状だった名残です。
薪炭用に森林を伐採するといっても、1年で皆伐するわけではありません。山を沢山の区画にわけます。その分割した区画を例えばA、B、C、D、E、……、などとすると、今年はAを伐採、来年はBを伐採、再来年はCを伐採……、という具合に順繰りに移動していくのです。そして20~30年ぐらいで一巡して元に戻ります。実際には行儀よく順番に移動するのではなく、飛び飛びにあっちを伐り、こっちを伐りという感じです。それで樹齢が最大限30年ぐらいで、さまざまな樹齢の区画がパッチワーク状になるのです。20~30年ぐらいで全山の森林を伐ってしまうのは、炭焼や薪にはあまり大径木では適さないからです。
「魚つき林」について考える (その3)        ――昔は薪(まき・たきぎ)や木炭しかなかった――
日本の森林の荒廃について、とくに歴史的な推移を考えるにあたり、参考になるサイト等を厳選してみました。本エントリーは参考リンクが多いです。

サイト「私の森.jp」さんの『日本の森の歴史』が、日本の森林破壊の通史的な概略をきわめて平易にまとめています。
↑このサイトがわかりやすくピカ一です。ざあーっと捜しましたがこれ以上のものは見つかりませんでした。ただ、一つの難点はサイトの主催者が「地球温暖化説」を盲信し自己の商売に利用していることです。地球温暖化騒動はもう終わっています。賢明なる方はもう気づかれていると思いますが、温暖化で地球が破滅するとあれだけ煽ったマスゴミも、最近ではほとんど言わなくなりました…。
サイト「森林・林業学習館」さんが林業全般について知るには良いサイトです。
↑このサイトは森林(人工林)について考えるのに参考になります。ただし林業という産業としての観点から森林を見ているので、商品としての木材が思うように生産できなければ、“森が荒廃している” と必要以上に強調するきらいがあります。
林野庁の『林業白書 平成22年度版』です。購入しなくてもネットで全文が閲覧できます。
↑森林面積などの詳しい数字を見るには白書がいいでしょう。

●紙の書物では何と言っても次の書物です。森林荒廃の究極の姿 “はげ山” の研究書です。はげ山について研究した唯一と言ってもいい書物です。千葉徳爾著『はげ山の研究』1956年刊。増補版は1991年刊。この書物の他には、森林荒廃とかはげ山について論考している本があっても、薄っぺらく程度が低いです。
“はげ山” を研究した唯一の本
↑質・量とも他の類書を圧倒しています。この本のすごいところは自然科学と人文科学の両面から問題にアプローチしていることです。難点は入手困難なことです。古書店でかなり法外な値段が付いています。写真のものはわたくしの蔵書です。20年前に増補版が出るという情報を得て出版社に予約を申し込んで手に入れました。

大阪府のHP 環境農林水産部 みどり・都市環境室 みどり推進課  森林整備グループが作成した治山事業の資料で、昭和初期から30年代の見事なはげ山の写真が見れます。
日本列島で特にはげ山が多かったのは、人口密集地帯の太平洋ベルト地帯の周辺の山々です。近畿中央部から瀬戸内海沿岸地帯は、雨量が少なく、母岩が花崗岩の風化した土が多く水はけが良すぎるし、大雨がふれば浸食されやすいのではげ山だらけでした。

NPO法人 森をたてようネットワーク様のサイトで、悪名高い足尾銅山のすさまじい森林破壊の写真が見れます。
江戸時代から各地で銅山が開発されて、山が削られ、燃料や坑木のために木が伐られました。また硫酸を含んだ煤煙の害で草木が枯れ果てました。銅山開発によるすさまじい環境破壊・森林荒廃で悪名高いのは、この「足尾銅山」と愛媛県の「別子銅山」です。別子銅山は閉山して40年ほど経ち、山の尾根の風衝地帯をのぞくと見事に森林が回復しています。

●昔は燃料は薪(まき・たきぎ)や木炭しかありません。
兵庫県伝統的工芸品『淡路鬼瓦』指定窯元 株式会社タツミ様のブログ
↑淡路島南部は窯業の盛んな土地柄です。江戸時代から瓦や陶磁器の製造が大きな産業になっていました。タツミ様のブログの写真を拝見すると、だるま窯でいぶし瓦を焼くには燃料にする大量の割木が必要なことが良く分かります。たぶんマツの木の割木だと思いますが、窯の周囲に大量に積み上げています。いまでは瓦や陶磁器を焼くのにガス窯とか電気釜とかに変遷していますが、昔は薪(割木)すなわち森林資源しかありませんでした。

●さて、江戸時代から明治期そして終戦直後まで、日本の森林は大量に伐採されてはげ山だらけでした。もちろん江戸幕府も明治政府も過度の森林伐採を政策的に制限したり、植林事業も推進しました。しかしながら、植林や樹木生長による生物現存量の増加よりも、伐採による収奪量の方が多ければ、森林はは荒廃していくのは避けられません。

昔は燃料と言えば薪や木炭しかなかったというのは必ずしも正確ではなく、石炭は奈良時代の『日本書紀』にもそれらしい記述があり、古くから “燃ゆる石” という名で石炭の存在は知られていました。江戸時代に北九州で薪の替わりに風呂の焚き物に石炭がくべられたという記録があるようです。また江戸期の瀬戸内海地方の製塩業の燃料に九州からの石炭が使われたというのも知られています。が、それは微々たる量でしょう。

そもそも石炭の総生産量が急増したのは明治後期からです。その総生産量の推移はつぎの通りです。昭和15年の5630万トンがピークで、その後昭和40年頃まで5000万トン前後の数字が続きます。江戸期や明治前半までは石炭の燃料としての比重は極めて低いのは明らかです。

明治7年 → 明27年 → 明37年 → 大正3年 → 大8年 → 昭和15年
21万トン 400万  1000万  2230万  3120万  5630万トン  

●江戸期には日本の総人口は3000万人前後を維持していましたし、明治に入ると、戦前のピークの7000万強に向かって人口の膨張が始まります。しかし生活や産業に使用するエネルギーの主力は薪や木炭で、これが森林破壊の圧力として大きな負荷をかけました。これが昔ははげ山だらけであった根本的な理由です。食事を作る煮炊も風呂をわかすのも薪(まき・たきぎ)です。暖をとるのは木炭です。製鉄や銅の精錬、瓦や陶磁器の窯業、瀬戸内地区の製塩、これら産業用の燃料にも薪や木炭が使われました。江戸時代には樹木の根っこまで掘り取られた記録が各地にあるようです。
それから、明治後期から石炭生産が盛んになったと言っても、家庭での燃料は依然として薪や木炭が主力で、それは戦後の昭和30年代のいわゆる “燃料革命” まで連綿として続きます…。  

それと忘れてはいけないのは、昔は田畑の堆肥として森林の林床の落葉や落枝や下草がことごとく掻き取られて持ち去られました。化学肥料など無かった時代ですから、土作りにそうしたのです。僅かにあった肥料らしいものは “干鰯・ほしか” ぐらいのものです。あとは自給の草木灰や下肥です。この森林の落葉・下草掻きが森林破壊の大きな要因の一つです。 (本稿は更に続きあり)
「魚つき林」について考える (その2)          ――昔の森林破壊をどうやって調べるのか?――
昔の植生を知る手掛かりはいろいろあります。古文書・絵図・地形(天井川の存在)・言い伝え・花粉分析など。明治時代になると写真があります。文明開化の波がいち早くやってきた神戸では裏山の六甲山(932m)を撮った写真が残されています。そんな古い写真から明治期の六甲山は “はげ山” だったことが分かります。これら古い時代の植生を知る手掛かりを全て取り上げるのは、素人の私には手に負えませんので、絵図についてだけ申しのべてみましょう。

環境問題を声高に叫んでいる連中は、森林が破壊されている! などといいますが、全くの認識誤りです。2011年の今は日本の歴史上でもっとも森林がよく茂って豊なのです。(ただし、縄文・弥生まで遡ると話は別ですが)人間というものはいったん先入観にとらわれてしまえば、当たり前のことでも見えなくなるのは不思議なものです。この国の森林の破壊が目立ってきたのは500年前ごろからで、江戸時代には各地で “はげ山” だらけだったのが古い記録でわかります。この国の森林の破壊がピークになったのは、太平洋戦争中から終戦直後あたりだと言われています。軍需用に大量に木材が必要になったのと、戦後の復興にも木材が要ったからです。

江戸時代の山を描いた絵図
↑『淡路国名所図会』嘉永4年(1851年)出版より。
昔は写真がなかったので、絵師という職人がさし絵を描きました。この絵に描かれている場所は、現在の地名では南あわじ市灘のスイセン郷の近くです。元吉野と言って平安末期の天台宗の僧の明雲僧正(みょううんそうじょう)が隠れ潜んだ所と伝えられています。

●このような絵図から江戸時代末期の植生が読み解けるのです。べつにこの絵図でなくてもいいのですが、これを選んだのは私(山のキノコ)が付近の地形は植物観察で谷から尾根まで歩き尽くしてよく知っているからです。この絵は明らかに船で少し沖合から山を眺めて描いた絵です。この絵から読み解ける重要なポイントは3つあります。

(1)描かれている樹木の輪郭からマツ(クロマツ・アカマツ)であることが分かります。松はパラパラと疎林状態で、主に尾根にあります。谷にはありません。マツ以外の樹木は描かれていません。

(2)山肌の小さな起伏が克明に描かれています。山の細かなヒダが描かれているということは禿げ山であることを示しています。もしこの山が森林で覆われていたならば山肌の細かな起伏は描けないハズです。(積雪が多いと地表がのっぺらぼうになるのと同じです。森林が細かな起伏を隠してしまう)

(3)山の斜面に草がはえているように描いています。尾根筋にマツがあり斜面には草が生えています。

つまり、この絵図は “はげ山” の絵なのです。マツの木は少しありますが、他の木はなく、もちろん森林もありません。森林が破壊され尽くした状態です。しかしながら草ははえている、ということです。

そもそも絵などというものは省略や誇張など技法を凝らすものであり、実物通りに描いていないのでは? という疑問もあると思います。それで、そこの地形をよく知っている所の絵図を持ち出したのです。これは、そこに、そのような風景があるから、あるように描いた “写実的な絵” です。

●江戸時代には沢山の書物が出版され、たくさんの絵図が残されていますが、描かれている山の絵図ははげ山ばかりなのです。樹木があるのはたいてい尾根筋だけなのです。マツの木が描かれていることが多いのですが、そもそもマツがあること自体がはげ山であることを物語っています。マツという針葉樹は競争に極めて弱く、広葉樹の森が生長してくるとマツは消えていきます。マツが沢山あるのは森林が破壊された証拠なのです。

豊かな森林に覆われた山
↑かつて45年以上前には炭焼きで定期的に森林が皆伐されていました。山肌がむき出しになっていますと、山には小さな尾根や谷が無数にあるのが良く分かります。しかしひとたび鬱蒼とした森林に覆われてしまうとそんな “山のひだ” は見えなくなります。近世の山を描いた絵図は細かな山のひだを克明に描いたものが多いです。つまり森林が伐採されて無いのです。
「魚つき林」について考える (その1)        ――魚つき林の植樹はたんなるパフォーマンス――
漁業関係者がよく言う “魚つき林” というものがあります。「山の森林が荒廃したら魚資源が減少する、したがって山に植樹することが魚資源の涵養につながるのだ」などというのです。それで各地に漁業者の森と称して植林が行われています。ただし植林面積はごく僅かで、単なるパフォーマンスにしかすぎません。日本の森林面積は約25万平方㎞であるのに対し、魚つき保安林面積は250平方㎞ですので、たった1000分の1にすぎません。焼け石に水。九牛の一毛。森林面積の千分の一の比率では無いも同然です。

森林総合研究所 「沿岸生態系:森林の魚つき機能」
↑これは政府系研究機関のサイトにある魚つき林の解説です。しかしながら、こんなのは随筆同然の文章です。「……証明するために使える可能性があります」とか「……両者が密接な関係にあることが解明されるかもしれません」とかの記述から読み取れるのは、科学的な証明はまだないということです。

論文検索で「魚つき林」をキーワードにして検索してみた。
↑いろいろと検索して調べてみましたが、“魚つき林” などというものを研究している研究者はほとんどいないし、論文もほとんど存在していないようです。我が国には広く見積もって約70万人もの研究者がいるとされていますが、魚つき林の専門家などいないわけで、わずかに、森林や水産関係の研究者が関連する事象として、ついでに「魚つき林」考察しているにすぎないということです。わずか数人しかない “魚つき林の研究者?” たちが書いた解説などをネットで探して読んでみると、魚つき林と漁獲との関連性・因果関係が科学的に実証されたわけではない、とハッキリ言っています。

「魚つき林」を植樹したと謳う立派な看板
↑この場所は南あわじ市賀集牛内川の奥です。ダム工事に伴って残土が沢山出ました。それを捨てる場所がないので山奥の谷に捨てられたのですが、谷は埋め尽くされました。当然ながらその谷にあった植生(森林)は破壊されました。先に森林を埋めて破壊しておいて、ぞの破壊後に “漁業者の森” を育成しようというのは全く矛盾です。いわばマッチポンプです。消防団員がマッチで火をつけて火事を起こし、さあ大変だ、消火だ、消防ポンプをもってこい…、というのと変わりません。

「魚つき林」ならぬ「魚つき草原」なのでは?
↑もと「魚つき林」だったのでしょうが、植樹した木は多くは枯れています。残っている木も生長が悪いです。ヤマモモの木を植えたようですが、樹種の選択は好ましいものだと思います。ヤマモモは窒素固定菌と共生する肥料木です。やせ土でもよく生育します。しかもシカの不嗜好植物ですので、シカの食害の心配がありません。(ときにはシカが食べることはありますが、積極的に食べるわけではありません)その理由は不明ですが植樹した多くのヤマモモが枯れています。

ヤマモモに替わって、ススキの立派な草原になっています。ススキの間にある背の低い草はレモンエゴマとかナルトサワギクなどです。このススキの原の端には『兵庫県レッドデータブック2010』でCランクの貴重植物とされるウスバヒョウタンボクが沢山あります。まもなくこのススキの原には、先駆植物的な樹木のタラノキとかニワウルシとかクロマツ等がどんどん侵入してくると思います。放っておいてもやがて勝手に森になります。

べつに植林する必要性などたいしてなかったのです。風散布の草の種子が飛んでくるのでじきに草原になります。鳥類が果実をたべて糞をおとし樹木の種子がもたらされます。草がはえ木が侵入し、年月をかけて森林に帰るのは自然の摂理です。土が雨で流亡しやすい急斜面ならば “種子の吹きつけ緑化工事” 等が必要になるでしょうが、この緩傾斜ならば放っておいても問題はなかっただろうと思われます。実際、ここは既にススキ等がびっしり繁茂しています。こうなると大雨でも土砂の流出はほとんどないでしょう。

つまり、この魚つき林の植樹は単なるイベントであり、パフォーマンスでしかなかったことが透けて見えているのです。たんなる “植樹まつり” をしただけで、森林育成が本当の目的ではなさそうです。それはその後に管理の手を入れた形跡が無いことから明らかです。もしかしたら、補助金が出たからそのカネを消化しようとしてやっただけかも…? 苗木にしても看板設置にしてもタダの筈がないです。どこからかカネがでている筈。金額はしれているでしょうが…。

●さて、先にリンクした解説文では、森林の魚つき機能として3点あげています。
(1)土砂の流出を防止して、河川水の汚濁化を防ぐ。
(2)清澄な淡水を供給する。
(3)栄養物質、餌料を河川・海洋の生物に提供する。

(1)と(2)は区別する必要がなく、高木層・亜高木層・低木層・草本層・蘚苔層・地中層の階層構造がよく発達した森林では、とくに広葉樹の自然林では、地表に厚い腐植質の層が形成されてふわふわの絨毯みたいになります。かなりの大雨でもスポンジが水を含むように吸収するので、大きな保水力があります。保水力があれば、水源を涵養し降った雨が一挙に海に流れるのではなく、長期にわたって少しづつ谷川に水を供給します。(1)と(2)については全く異存がございません。まったくその通りであると思います。
(2)については、栄養塩類の供給源は森林だけではなく、降雨そのもののなかにアンモニア態窒素や硝酸態窒素などが大量に含まれます。その起源は自動車の排気ガスだったり、工場の排煙だったり、火山ガスだったりといろいろのようです。また、田畑に大量の窒素肥料や燐酸肥料が施肥されますが、施肥した半分ぐらいは川から海に流出しているという見方もあります。森林以外に栄養塩類の供給源(見方を変えると排出源)があります。家庭の排水にも下水にも窒素やリンが大量に含まれています。むしろ栄養塩類の供給過剰で河川や内海の富栄養化がよく問題になります。それで(3)をただちに異存がございませんとは言えないのですが、しかし反対だというのではありません。

●実は必ずしも “魚つき林” を否定しようというのではなくて、それなりの大きな意味はあると思います。しかしながら問題は魚つき林に意味はあるのか? ないのか? などではありません。問題は、漁業者の森を育成しようという考え方や運動の背景です。今全国の森林が荒廃しているという認識のうえに立っているのが問題であろうかと思います。というのは日本は歴史上いまが最も森林が豊かであるというのが間違いないからです。環境問題や生物多様性が叫ばれ、なんとかしなければという風潮の中では、ほとんどの国民は森林が荒廃していると信じ込まされています。しかしながら実際は全く逆なのです。歴史上いまが最もよく森林が育っているのです。次のエントリーでそのことを敷衍しましょう。



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