雑想庵の破れた障子
ぺんぺん草に埋もれた山中の雑想庵。 破れた障子の小さな穴から見えるものを綴ります。
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反原発のスゴイ本が、過激に出版! マッド・アマノ著 『原発のカラクリ』
●それにしても、何ともはや凄い本が出たものであります。凝縮して簡潔なる文章、意表を突く風刺画…、読んでなるほどと瞠目させられ、絵をみて楽しめる…、まことに素晴らしい本であります。難解な本ではないから、中学生からお年寄りまで読めます。1家に1冊、原発のまやかしを知るために、国民1人残らず必読の本だとわたくし山のキノコは思います。少し論評をして、強く推奨をしてみたいと存じます。

『原発のカラクリ ――原子力で儲けるウラン・マフィアの正体――』マッド・アマノ著
  鹿砦社発行 2012.6.20刊 定価1600円+税

マッド・アマノ著『原発のカラクリ』

●わたくしは、アマゾンに6月25日に注文したのですけれども、7月2日になって、アマゾンから次のメールが来ました。

「誠に申し訳ありませんが、以下の注文商品の入荷に時間がかかっており、お届け予定日がまだ確定しておりません。(注文日:2012-06-25 )(注文番号:250-3467274-8740651) マッドアマノ "原発のカラクリ?原子力で儲けるウラン・マフィアの正体" ご注文商品のお届け予定日が現時点で確定していないことをお詫びいたします。現在、お客様に商品のお届け予定日をお知らせできるよう、調整を続けております。誠に申し訳ありませんが、調整のうえ、仕入先から入荷の見込みがないことが判明した場合、またはご注文数が入荷数を上回った場合、やむを得ずご注文をキャンセルさせていただくこともありますので、ご了承ください。商品のお届け予定日が確定しだい、Eメールでお知らせいたします」 (下線はわたくしが引いた)

●ふむふむ、過激に原発批判のマッド・アマノ氏の著書は、前著では、新聞社が広告掲載拒否をしたり、東販や日販など取次会社が配本拒否をするなど、原子力村の露骨な圧力が掛けられたそうであります。それで、また原子力村の利権者どもが反原発本が出回らないように阿漕な圧力をかけているのか? と心配したのですが、昨日6日夜8時に本が届きました。ネット書店で11日もかかるのでは、ネット販売の値打ちはありません。原発村の圧力が原因で商品が調達しにくいのか? あるいは、お客さんの注文殺到で応じきれないのか? 真相を知りたいところです。もし後者の理由であるならば、まことに喜ばしい限りであります。もし前者の理由であったとしても、それはそれで、この本に真実が散りばめられている証明であることを意味しますから、喜ばしいです。どっちであっても喜ばしいというのは、名著・名作の必要条件を満たしているわけです…。

●届いた『原発のからくり』は期待した通りの、否、期待を遥かに超える素晴らしい書物で、一気呵成に徹夜で読んだのでありますが、重ねて、強く推奨したいと思います。転ばぬ先の杖、原発村の悪党どもにもう騙されないための、また誤魔化しと隠蔽で高い電気代をかすめ盗られないための、一家に1冊常備して、国民一人残らず読むべき本です。1頁づつ独立した項目で順を追って通読してもよし、パラパラと興味のあるところを拾い読みしてもよし、簡潔な文章で原発のまやかし、原発の真っ黒な暗部を知ることができます…。

『原発のカラクリ』のすごいのは、もちろん文章もそうですけれども、そのイラストであります。当代随一の反骨パロディ・イラストレーターの天野氏の面目躍如たる凄い風刺画・風刺モンタージュ写真が、1ページに1点づつ掲載されています。風刺画というのはその作品を作る動機に、権力への反逆、既成価値への疑問、旺盛な批判精神がなければ、どんなに上手く描いても意味がありません。その点、マッド・アマノ氏は誰よりも過激に権力に楯つく批判精神にあふれ、原発村糾弾の風刺画が各ページにズラリと並ぶのは壮観であります。それぞれの風刺画に籠められた深い意味に、思わずうなづいたり考えさせられてしまいます。含蓄のある風刺イラストが98枚も勢ぞろい、一見すると絵本かムック誌のようですけれども、文章から立ち上る熱い怒り、火山の噴火のような義憤には全く共鳴するところがほとんどで、第一級の原発批判の書であると言えましょう。

【1点だけ風刺イラストを引用転載させていただきます】
マッド・アマノ作「原発バブルの塔」
↑40ページから、PARODY No.33、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」に踊らされて 「原発バブルの塔」です。

★すごい合成写真・風刺イラストでありますね。バベルの塔の頂上に君臨するのは、崩れかかった福島第一原発であります。このモンタージュの原作は、16世紀のベルギーの画家 ピーテル・ブリューゲル の有名な代表作 『バベルの塔』 であろうかと思われます。

★神々が住む天上界にいたる塔を建設しようとした人間たちの、不遜な挑戦は神々の逆鱗に触れました。そこで、神々は人間どもの話す言語を異なるものとしました。人間どもは言葉が通じず混乱し塔の完成は達成されませんでした。やがて塔は崩れてしまいましたが、そのバベルの塔というのは、また、資本主義経済の黒いあだ花 “バブル” と同等でもあります。膨らみが臨界点に達したらパチンとはじけ、崩壊してゆきます。原発もしかり、それは誤魔化しと隠蔽とで不正義に税金や電気代を略奪する黒いバブルそのものであります。4つのプレートがひしめきあい、列島の近くに 三重点 が2か所もある世界でもっとも地殻変動の活発で危険な日本列島に、54基もの原発をつくったのは、バブル以外のなにものでもありません。科学技術を過信し傲慢になった人類は、原子核反応という “天上の御神火” に手を染めてしまいましたが、神の領域に挑戦して悪童の火遊びに興じてみたけれども、結局それは人類の手に負えませんでした。メルトダウンを防げなかったし、高レベル放射性廃棄物の問題など解決の方法が全くありません。言い古された言葉ですが、トイレなきマンションです。万物の存在の根源を司どる神の逆鱗にふれて、“原発バブルの塔” が崩れ去るのはそう遠くはないでしょう…。

原発バブルの塔の黒い利権構造をあばき立てる『原発のカラクリ』が、原発反対のバイブルとして広く読まれ、100万部のベストセラーになることを念願したいと思います。
マッド・アマノ氏のサイト「権力に楯突くパロディー新聞 THE PARODY TIMES」
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淡路島文学 第七号 を読んで。             宇津木 洋 『風紋』 を鑑賞する。(その2)
   <その1からの続き>

『風紋』です。砂の上に出来るから「砂紋」とも言うらしい…
砂漠に生ずる砂紋
↑ナミビア砂漠の砂紋です。Wikipedia「砂紋」から抜粋引用。すこし画像を加工しました。砂漠の上を吹き渡る風が、砂を移動させマカ不思議な模様をつくっています。周期的な模様であるようにも見えるし、そうではないようにも見えます。吹く風の強さ、吹く方向も必ずしも一定ではないので、風というのはそもそも乱流でありましょう。また、風の強さも強弱の息をする揺らぎがありましょう。移動する砂の側の事情をみても、星の数ほどもあろう砂粒も大小あります。その形状も千差万別であります。どのような模様ができるのか? それは砂の粒子の大きさ・形状・風の風向・その強弱…、風紋を解析する数式のパラメーターは沢山考えられ、完璧に定式化することも難しく、仮に定式化したところでその数式の解を求めたとしても、これこれこういう風のときはこの模様のパターンだ、とそう簡単に言えないに違いありません…。

変幻自在で解析不能な風紋パターンは、むしろ経験則にのっとって、たとえば5月の△△から吹く風では○○の模様になることが多い…、秋10月の風ではこのパターンが頻出する…、などと沢山の観察例を積み上げてそこから何かしらパターン性みたいなものを抽出・帰納するほうがいいのかもわかりますん…。ようするに、どんな時にどんな紋様ができるのか、記述したり、正確に予測などできませんな、とわたくし山のキノコは思うのであります…。

こちらは水面(みなも)にできた風紋であります。 波紋ではありません。波紋とは、発生の中心すなわち波源があり、同心円状に外に向かって放散していく紋様でありましょう。風紋は同心円状ではなく、一定方向に並んでいてそして進行していくもので、(物理的には水の粒子がその場所で振動しているだけでしょうけど)明らかに相違しています。
池面(いけも)を吹く風が作る紋
↑これは自家製の写真です。画面の右から左の方向に強風が吹いています。この写真を撮った頃にアメダス南淡で最大瞬間風速15.0m/sを観測しています。砂漠の紋様と酷似しているのですが、かなり違います。砂粒は大小の大きさがありますが、水の分子には大小は多分ないでしょう。質量が約2倍の重水素から成る水の分子は一定の割合で存在するのでしょうが、分子はあまりにも小さく、水分子1個1個に風が作用することなどは考えにくいです。砂の構成粒子は大小あり均質ではない反面、水を作る分子は均質で一様な、という違いがありそうです。それに固体物質と流体物質という違いもありましょう。それで、風が砂上に描く模様と水面に描く模様とでは違いがあるのかもしれません。画家が同じ絵筆で同じ手法で絵を描いても、キャンバスの素材が布であるのか紙であるのかで微妙に異なるみたいなものかもしれません…。ま、これとて山のキノコの妄想であり、実際のところはよく分かりません。

●さて、つねに似たようなパターンが出現するけれども、よく見れば、その都度その都度ビミョウーに紋様は異なり、2つとして同じものがあり得ない。その瞬間毎に現われた紋様は唯一無二のものであって、全く同じ紋様が現われることなど決してないのであります。指紋と同様に、同じ紋様が出現する確率は無限小であります。800年まえの古人が見事に喝破しています。

行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくの如し。 
                   ―― 鴨長明『方丈記』――

★尽きることなく流れていく川の水は、本当に絶えることがありません。しかしよくよく観察しますと、10分前に目の前を流れていった水は今はずっと下流にあります。今まさに目の前にある水も10分後ははるか下流に流れ去っているハズです。水はいつでも常に目の前にあるのですけども、その水は10分前の水ではなく、また10分後の水とも違います。水は定常的に常に変わることなく流れて目の前に存在していますが、目の前の水は常に新しい水であります。元の水では決してないのであります…。

★淀みに浮かぶ「あぶく」も、世の中にある家も人も全く同じです。あぶくは出来ては消え、消えては出来ます。家も古い家が壊され新しい家が作られます。生まれ死ぬる人も何処から来たりて、何処へと去るのか分からず、50年たてば周囲の人々の顔ぶれもすっかり変わっています。この世の中のあり様を端的に記述すると、消滅と生成、破壊と建設、死去と誕生のサイクルの連鎖なのです。そのサイクルの無限の繰り返しなのです。しかし注意すべきことは、それは円環をぐるぐるとめぐる無限の輪廻転生であるように見えるけれども、しかし単純な繰り返しではけっしてありません。その一つ一つのサイクルは、唯一のものであり、全く合同なサイクルということは起こり得ないのであります…。その意味では円環の循環ではけっしてなく、一方向に進む不可逆的な流れと言うべきかもしれません…。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者もついには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。
                  ――『平家物語』の冒頭 ――

★インドにあるという祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)という寺の鐘の音色には、この世に存在するあらゆる物には実体がなく、むなしく、永遠に存続するものなど何一つもないんだよ、と言っているような寂寥たる不思議な響きがございます…。また、これもインドにあるという沙羅双樹(さらそうじゅ)という樹は、ナツツバキだとか、諭鶴羽山にも自生するヒメシャラの樹に似ているらしいのですが、その白くて楚々とした花の色は、権力の頂点を極め、どんなに栄耀栄華を誇ったとしても必ず衰退し没落するときはやってきます。と、そういう人の世の法則を表しているような気がするのです…。権勢を誇り威張っている人も、何時までも頂上にいられるわけではありません。それは春の夜の幻か、つかみどころのない蜃気楼みたいなものですよ。権力を握り、乱暴狼藉をはたらき、横柄に威張り散らしている者は、結局いつかは必ず滅亡するのです。それは、ひとえに風に吹かれて飛んでいく塵みたいなもので、はかなく、空しいものなのでございます……。

      ……………………………………………………

淡路島文学 第七号 宇津木 洋 『風紋』の書評
【作品のタイトルの付け方の巧みさ、凄さ】
宇津木 洋 の文章はリリシズムのある上質の文章で、よい作品を書き続ける安定感があります。このたびの作品も抒情性があふれています。今回の作品のタイトルが何故「風紋」なのか最初は全く理解できなかったのであります。なんだか奇妙なタイトルだなあと、最初はまったく分かりません。読み進めてもまだわかりません。しかし70枚のこの作品を読み終わると、なるほどそうなのか! と一瞬で疑問が氷解するという、そんな題名なのです。読了してはじめて「風紋」がぴったりの題名であるし、また「風紋」以外に題名を付けようがない…、ということが了解できるのです。今回は題名のつけ方に凝ったのだなあという印象であります。題名の付け方の巧みさ、凄さに驚かされました。

「風紋」と「人の世の遷移」の等価性…、とでも表現すべきなのか、結局、同じものだということを宇津木は表現しているのです。で、本エントリーの冒頭から2葉の写真をまじえて累々と書き述べた拙文が宇津木洋『風紋』の書評(感想)であります。

砂の上にできる風紋も、水面にできる文様も、人と人との生者必滅・会者定離がおりなす織物の模様も、結局みな同じだということであります。全体的には人の世は常に一定の姿を顕しているということでは定常的であります。人が居て人があつまり集団を作っているということでは30年前も今もそう変わりません。しかしその集団全体では見かけ上は同じような姿を保持していても、その集団の1人1人をよく観察するならば、古い人と新しい人とが常に交替しています。個々の部分部分では流動的でつねに変化しているのです。これは「動的平衡」だと換言できましょう。それを800年前の隠者文学の傑作『方丈記』ではレポート風に表現しました。まったく同じことを宇津木は小説として表現したのです。

ゆえに、宇津木作品の『風紋』は古典の名著『方丈記』に比肩する秀作といえましょう…。
淡路島文学 第七号 を読んで。             宇津木 洋 『風紋』 を鑑賞する。(その1)
淡路島文学 第七号 が発行されました 
2012年4月発行。頒価千円(税別)発行所は「淡路島文学同人会」
〒656-0016 兵庫県洲本市下内膳272-2 北原文雄方
小説・詩・随筆10本が並び、島内主要書店で好評発売中であります。

●淡路島では各旧町ごとに俳句や雑俳の結社があり、島内いたるところに句碑が建てられるなど、短詩型文学の創作が盛んであります。けれども、小説や随筆などの散文学の創作はかならずしも盛んではなく、散文学不毛の地だと言われてきました。そんななかで『文芸淡路』が興され23号まで発行したのちに休眠、その後に誌名を『淡路島文学』と改名して冬眠から覚め、このたび第7号にまで漕ぎつけた模様です。“同人誌は3号誌” であるとよく言われます。3号まではなんとか発行できても、それ以降が続かない、ということを揶揄してあるいは自嘲していう言葉です。実質は第30号にまで続いているのは、のんびりしているけれども粘り強い島人の底力なのだろうか? この実質30号まで続いたという事跡などを勘案するならば、もはや淡路島は散文学不毛の地とは言えないでありましょう。元同人のなかから「文学界新人賞」などを受賞する書き手も排出しているそうでありますから、淡路島の散文学的土壌はけっこう肥沃であったと言えるのではないか?

●第7号には同人10氏の作品群が掲載されています。各作品の傾向には “多様性の豊かさ” が観察できます。身辺雑記ふうな生活記録的なもの、人生回顧録ふうな自叙伝的なもの、若かりし頃の反省文・懺悔録か?というもの、だけでなく、SFファンタジー的な手法を取り入れた寓話的作品、地域の現代史を克明に写し取る記録文学的なもの、社会のある事象を鋭くえぐり出す告発文的なもの、内面の深層心理のゆらぎを端正な文体で書く心理小説ふうなもの、などがズラリと並んでいます。表現は容易であるけれどもその解釈が難解で意味深長なポエムもあり、本誌に異彩を添えております。

淡路島文学 第七号

淡路島文学 第七号 目次

●発売されるとすぐに手に入れておりましたが、仕事が案外に忙しかったのと、シャクナゲ観察会を企画してその準備に大わらわでなかなか読めなかったけれども、ようやく『淡路島文学 第七号』を通読することができました。そこで、大胆にも書評をしたいと思います。力作・秀作がズラリと揃っていて目移りするのですが、全作を論評していたならば10回連載の記事になり冗長なので、ただ1作を選抜いたします。やはり、その特筆すべき “文体の華麗さ” および “描いている根源的テーマの普遍性” の観点から宇津木 洋の『風紋』が、他作より1ランクあるいは2ランク上に突き抜けているように思います。第7号の巻頭を飾る『風紋』が本号の大黒柱であることは疑いようもありません。


宇津木 洋『風紋』(70枚)についての感想
【作品の梗概】 
 作品は、中古の自動車を買い換える場面から始まる。隆文は中古車店の店頭を、敬虔な巡礼者が聖地を巡るかのように、中古車店を巡って物色した。どのように品定めをしたらいいのか? その知識がないので良い買い物ができるだろうか? 沼からメタンガスが湧くように、迷いや思案がふつふつとわき上がってくるので、しまいには仏壇に手を合わせた。それは何の意味もないことだけれども、心配のあまり、ご先祖様のご加護のあらんことを乞い願った……。

 翌日は孫の宮参りの予定であったが、いとこの新田モリヒロさんの訃報が飛び込んでくる。モリヒロさんは隆文よりも10歳以上年行きであった。雑俳をしていた。お悔やみに駆けつけたところ、隆文には見知らぬ顔ばかりが並んでいる。隆文は若いころのモリヒロさんや祖父のサイゾウさんや昔の人々のことを思い浮かべるが、周囲の人と交わす言葉もなく、新田家を辞去した。とり急ぎのお悔やみを終えると、中古車の物色の続きである。隆文には少し優柔不断というか、思案し過ぎというか、なかなか決断できないところがあった。それで店の前を行ったり来たりしたけれども、意を決して店主と交渉しめでたく売買契約が成約した。

 翌日は新田家のお通夜だった。モリヒロさんの弟のヨシヒロさんが駆けつけていた。隆文は子供のころに夏休みのあいだ新田家に預けられたことがあった。それで何十年も前の昔のことが走馬灯のように思い出された。ヨシヒロさんは昔は闊達な人であったが、お通夜の席では次第に寡黙になっていった。親族の世代交代はいかんともしがたく、昔の新田家の人々はもうほとんどいない……。隆文やヨシヒロさんの時代の人々は、祖父や祖母も、伯父も伯母も、いとこたちも、みんな世を去っている。いま集まっている多くの顔を隆文は知らなかった……。

 さて、しばらく後に、中古車を買った店の前を通ったら店が空っぽであった。すわ、前金を盗って夜逃げか? と思ったが、調べてみると店舗を移転していた。人だけでなく、店も、閉鎖とか新規開店とか移転など、移ろいでいくものなのだろう。千古不易とか永遠不変などありえない……。ものごとは、風に吹かれる塵のように、移動・異動していくものなのだ。

 3か月ほど経って、こんどは叔母の高木トミコさんがなくなった。この叔母は、元は隆文の従姉であったが、隆文の叔父と結婚したがために叔母になったという複雑さがあった。民法的には、4親等でもあるし3親等でもあるということだが、隆文は幼少期に実母を亡くしたので、この叔母が何かと世話をしてくれた。その叔母の家族も次から次へと亡くなっているのだ。娘のヒサコさんが癌でなくなり、長男のテツオさんも心臓発作でなくなった。周囲の人々が次から次へと帰らぬ人となっていくのである。その叔母の葬儀が終わり、初七日の法要で、隆文の隣に故人のトミコの姉妹ミサコさんとサカエさんが座った。昔、おしゃべり3姉妹といわれ饒舌で鳴らした姉妹だ。一人欠けてもよくしゃべる。ひとしきりしゃべったあと姉妹は言う……。

「残ったいとこは4人になってしまったね」
「うん、このまま別れたらもう会えないかもしれないね」
「出会えてよかった」

【寸評】
晩秋の鐘の音のように、なんとなく哀愁を帯びた余韻の尾を響かせながら、作品を締めくくっています。生きとし生けるものには「死」は必然であり、不可逆的であります。どうしようもありません。生者必滅、会者定離はあらがいようのない世の定めであります。生きている存在が、生きていることに起因するところの、苦しみ・不安・辛さ・宿命といったものから、逃れられない哀しい現実を抒情詩的な文体でサラリと描き出しています。なかなかの秀作であります。

   <本エントリーは、その2に続きます。>
「淡路島文学6号」を読んでの寸評(その2)
淡路島文学6号に、発行人の北原文雄氏が4本のコラムを書いています。

●『魚眼』では、原発を受け入れた原発立地自治体の責任を鋭く指摘しています。原発事故の責任は第一義的には、それを主体となって進めた政・官・業だけでなく学者・マスコミまで含めた利権複合共同体にあるのはもちろんでありますが、交付金等のお金に目がくらんで原発を受け入れた自治体の首長や議員や住民も被害者でもあるが、責任を負うべき加害者でもあるというのはまさにその通りでありましょう。
●『喫煙室』では、資源ごみ収集日の見張りを4人でしたところ、そのうち3人が福島県に身内や知人がいるらしい。また県議選では津波とか地震とかの話題に上手く便乗した候補者が当選したり、知人の会社経営者が東日本大震災の影響が及んで資材の不足が生じていることや、タバコまで震災の影響で入手できないなど、遠く離れた島にまで影響が及んだことを述べています。
●『短兵急』では、一時マスコミが持ち上げた福島原発の吉田所長をきびしく批判しています。「風評被害というが、日本の原発は安全であるという真っ赤な嘘の風評を構築してきた責任者の一人を、救世主であるかのような風評を流すマスコミは何を目的としているのであろうか」とマスコミに対する不信を顕わにしています。(なんのことはない、マスコミは権力者たちの広報・宣伝係なのです。)
●『ペン皿』では、原発の安全神話は崩壊した、チェルノブイリを越える惨状だ、また事故を起こすかもしれない、原発がテロ行為の攻撃対象になる危険もある、という意味のことを述べています。そして発想の転換をして他のエネルギー開発に力を入れるべきだと主張しています。

原発に対する捉え方や批判にはまったく異存がございません。全面的に賛同でございます。しかしながら、いただけない部分があります。次のくだりです。

(引用開始)
「日本が原子力発電に費やしてきた費用と人材を、他のエネルギー開発に導入する。原発にかかわる人材は、ある意味では有能な人材である。彼らの能力を他のエネルギー事業に向けられれば、日本の再生はじゅうぶんに考えられる。」
「建設費が高いわりには不安定な発電量である風力発電や太陽光発電の、安定的発電と蓄電技術の開発や、建設費を抑える工夫。地熱発電・有機物発電などの技術開発。わたしのような文系の頭ではむりであるが、原子力開発技術者・研究者には可能だろうし、そういうエネルギー研究開発の人材を育てるべきである」
(引用終了)
  ―――――――――――――――――――――――――
引用部分に対する批評、批判、反論です。

●『魚眼』に、“故宇井純さんが「学者や専門家が出てきたら眉唾と思いなさい」と言っていたが、御用学者がかくも多いかとあきれ果てる。” と書いています。故宇井純氏といえば『公害原論』の著者です。せっかく宇井純さんから “御用学者の生態” を学んだのですから、物書きの洞察力で新エネルギー分野にも御用学者が跳梁跋扈している実体を見抜いてほしかった、と少し残念です…。

そもそも原発に関わった人材には厳しく責任をとらせて、逮捕し公職追放ぐらいの処分が必要なのです。いくらなんでも、「原発の人材を他のエネルギー分野に向けたら国が再生する」などと、失礼ながら愚かなことを書いてはいけません。これでは、“アイツは犯罪を犯した悪い奴だが素質は優秀だから、無罪放免にしてやって、犯罪のない明るい社会をどのようにして作るか、その委員会の委員に抜擢しよう” と主張するのに等しいのです。この国がダメなことの大きな理由の一つはまさにそこです。悪事・不祥事を起こし社会に損害や迷惑をかけた者たちをあまり厳しく追及しないことです。うやむやにして誤魔化すのです。なにか問題を起こしたら厳しく責任を問われて職や地位を失うという危機感・緊張感を持たないかぎり、人間はまた同じ失敗をやらかすのですよ。

●日本の総発電電力量に対する原発の発電電力量の比率は統計上29%です。しかし、発電手段別の設備容量(つまり発電能力)となると原発の比率は約20%に低下します。これは火力発電等の設備稼働率が原発と比べて相対的に低いのが原因です。次に、日本の社会全体で使用するエネルギーは電力(これは2次エネルギーです)だけでなく、石油などそのまま流体燃料として使ったり、石炭や天然ガスなど1次エネルギーのままで使うことのほうが多いです。したがって日本の1次エネルギーの総供給に占める原発の比率は、資源エネルギー庁の最新資料で僅か11.1%です。総エネルギーの1割など本気で削減するハラがあれば簡単に削減できる筈です。(政府や利権に与るものたちにはそのハラは全くありませんが…)電力不足を声高に叫ぶヤカラが多いのですが、一番安い発電方法の天然ガス発電所を少しだけ増強すればなんの問題もないわけです。べつに代替エネルギーなど叫ぶまでもありません。そもそも日本のエネルギーや電力を賄っている手段は石炭・天然ガス・石油の化石燃料が圧倒的主力であって、原発はほんの付け足しでしかありません。脱原発のためには代替エネルギーが必要という考えそのものが、プロパガンダに踊らされているのです。いまでも沖縄電力は原発に手をそめていません。火力発電のみです。しかしながら120万人も住む沖縄で原発がないから困るなどというハナシは全くありません。

●それと技術革新で問題が解決できるなどと無邪気に信じているのも滑稽です。宗教じゃあないのですから信じてはいけません。それでは原発の安全神話と全く同じです。新エネルギーがなぜ役に立たないのか、そもそも太陽光でも風力でも拡散したエネルギーで、エネルギー密度が低く、それを集約し捉えるには巨大な装置が必要になります。逆に考えると、装置は巨大なのに捉えることのできるエネルギーが少なすぎる、だから経営的にも成り立たないし、莫大な補助金が必要になるのです。しかもそれは変動したり、間欠的であったりするもので、電力として使用するには致命的な欠陥です。これらは技術革新でどうこうなるものでは全くないのです。たとえるならば米粒を運動場にばら撒いたのが “エネルギー密度の低い拡散した状態” なのです。ばら撒いた米ではご飯が炊けません。ご飯を炊くには “エネルギー密度を高め集約した状態” にする必用があります。つまり労力やコストをかけて米粒を拾い集めなければならないのです。ちなみに水力発電がなぜ優れているのか? 簡単です。雨粒ひとつひとつは僅かの位置エネルギーしかもっていません。ところが水は高いところから低い所に落ちていくので、流域面積に降った雨粒(米粒)がやがて自然にダムに集まるのです。自然が勝手にエネルギー密度を高めてご飯が炊ける状態にしてくれているのです。これが水力発電の優れている根本的な理由です。また、新エネルギーは不安定なものですが、不安定さを安定化しようとするならば、実際的には蓄電池じゃなくて揚水発電所の建設でしょ。原発ではそうしています。出力調整の利かない原発は夜間の余った電力を揚水発電所にためています。しかしそれはエネルギーを捉える為の装置のさらなる巨大化を意味します。(つまりEPR=エネルギー収支比の絶望的な低下です)

●新エネルギーが役に立つものかどうかの基準は、ライフ・サイクル・アセスメント(LCA)の手法によるエネルギー・プロフィット・レシオ(EPR)の厳密な評価です。投入するエネルギーに対する産出エネルギーの厳密な収支計算なのです。それが全てです。(もちろん産出エネルギーの質も大事です)しかしながら研究者たちの報告はじつに恣意的で胡散臭いものが多すぎます。たとえば(独)産業技術総合研究所の報告などひどいものです。それを推進したいがためのプロパガンダです。あまりにも恣意的で現実離れした見え透いた数字を平気で出しています。ようするに政府系機関の研究者・専門家は庶民大衆や文系の人など簡単に騙せるとバカにしているのですよ。国民や文系の人が「新エネルギーは今はダメだが、技術革新でやがて問題は解決できる」などと信じてくれたら、企業も技術者も経産省も大喜びです。彼らの思う壺です。いくらでも税金や補助金が流し込めますから…。電気代を値上げしていくらでも踏んだくれますから。彼らは当面なんとか原発を温存しようとやっきになっていますが、もし原発の温存が無理だったならば、こんどは新エネルギーで利権をむさぼるのが見えています。喜ぶのは三菱重工・京セラ・パナソニックなどの大企業、商社もよろこびますし、もちろん新エネルギー族議員や官僚たちも大喜びです…。ウハウハ笑いが止まりません…。最近ではソフトバンクの孫社長がのこのこと出てきました。ただし孫社長は周回遅れ、それも2周遅れか? 自分のたくらむ商売にカネを寄こせ(自分の太陽光発電電力を40円で買い取れ!)と露骨なロビー活動をしています。みんな手ぐすねを引いて利権に与ろうと狙っているのですよ。故宇井純先生の教える通り、商業主義的な匂いの立ちこめるものの背後にうごめく大きな化け物を見抜かないといけません。

おおまかに言って、いま保守勢力(右翼)は原発容認の主張をしています。一方では革新勢力(左翼)は脱原発の主張をしています。どちらの主張も科学的・論理的なというよりもイデオロギー的な観点からの主張の感じがします。問題は革新勢力が、「脱原発」=「新エネルギー推進」と同一視して捉えていることです。これでは原発が犯した失敗を、形こそ変えるのですが再び失敗を繰り返しそうです。

●独立行政法人・産業技術総合研究所は、風力発電や太陽光発電のEPRを報告するたびに数字がころころと変わりますが、風力発電で38~54倍、太陽光発電の旧来技術で12~21倍、太陽光発電の最新技術で16~31倍などという数字を出しています。ちょっと考えれば分かることですが、もしそれが本当であるのならば人類は無限のエネルギーを手に入れたことになります。エネルギー問題は解決です。万々歳です。元手のエネルギーが1あれば、それで20倍とか30倍のエネルギーを生み出すのだから、その産出エネルギーの一部を再投資に回せばいいのです。まさに複利で無限に膨張する貯金です。みんな嬉しくて笑いが止まりません…。(実際には、風車や太陽光パネルを再生産するためにはエネルギーのほかに珪砂や鉄などの資源や場所も必要なのでそう簡単ではありませんが)そんな矛盾ぐらい作家を名乗るのであれば、見抜いてほしいものです。じつは研究者も技術者もそんなことは百も承知の上でやっています。ただし本当のことを言っていたら所属組織からはじき飛ばされます。それで言えないだけなのですよ…。故宇井純先生が万年助手に冷遇され教授になれなかったようなものです。よのなか職や地位を投げ捨てる覚悟がないと、本当のことはなかなか言えないのです。

独立行政法人・産業技術総合研究所の太陽光発電のエネルギー収支
↑新エネルギーを推進するための政府系プロパガンダです。原発を推進するために原発の安全神話をプロパガンダしていたのと同じです。新エネルギー推進で利益を得る組織がやる研究や報告は結論が先行していて、高いEPRを出さざるを得ないのです。本当は、推進派研究者にも研究費を出し、反対派研究者にも研究費を出して、自由に徹底討論し競わせるべきなのです。

風力発電
↑もしこれが本当にEPR(Energy Profit Ratio)が独立行政法人・産業技術総合研究所の言うように38~54倍もあるのならば、人類は無限のエネルギーを手にしたことになるのですが……。もしそのEPRが本当ならば、経営されるホテルさんも儲かって儲かって笑いがとまりません。2号機、3号機と増やすハズですよ。私も資金を工面して1本でも建てたいです……。

風車の運行表示板です
↑ある老舗の名門ホテルさんが設置した風力発電です。三菱重工業製で、2004年3月にきんでんが施工しました。補助金は「関西グリーン電力基金」から流し込まれました。定格出力は2000kwです。

施設稼働率を計算してみます。7月14日朝の時点で年間発電量累計で1188MWh(メガワット時)と表示されています。7月14日は風車は動いてないので除外します。年初からの日数は194日です。もし定格風速の13m/sの風が吹き続けて定格運転がづーっとなされたのならば、2000KW×24h×194d=9312000KWhとなります。
K(キロ)は10の3乗、M(メガ)は10の6乗ですから単位を揃えて、1188MWh÷9312MWh=0.1275です。
この風車の稼働率は12.7%となります。付近は鳴門海峡に面していて樹木が扁形樹となるほどの強風地帯(風況が良い筈)なのに、稼働率がちょっと悪すぎるようですね。ちなみにこの風車はブレード(羽)が折れるなどの大事故を2回だったか?起こしています。


「淡路島文学第6号」を読んでの寸評(その1)
淡路島で唯一の散文学同人誌の『淡路島文学第6号』が発行されています。発行所は「淡路島文学同人会」です。編集発行人は、〒656-0016 兵庫県洲本市下内膳272-2 北原文雄。なんと202ページにも及ぶ大冊です。同人10氏による小説・詩・随筆がずらりと並んでいて壮観です。さらに6号には淡路島の生んだ芥川賞候補作家の鄭承博(ていしょうはく)の没後10年ということで、故人をしのび文学的業績をたたえる追悼寄稿文が9本も並んでいます。読み応え満点の特集号です。頒価千円で島内の主要書店で絶賛発売中であります。

淡路島文学 第6号特集号

淡路島文学第6号 目次

●大胆にも書評を試みたいと思います。力作揃いでどの作品を執り上げるか目移りするのですが、上質で端正な文体で読者を魅了してやまない宇津木洋(うつぎひろし)の『あんたどこの子』を執り上げましょう。

●『あんたどこの子』はエッセー風の抒情性あふれる素晴らしい作品です。宇津木氏はエッセイともアンチロマンともつかぬと言うか、心理小説なのか? とも読める傾向の作品を書く書き手です。今回の作品も従来の作品群と同じ傾向線上にあり、やはりハッキリとしたストーリー性がないようです。しかしながら、これはストーリーの展開の面白さを追うような低次元の作品ではなく、その上質な文体から立ち昇ってくる香気をたのしむ作品であります。

作品は、幼少のころ、少年期のころを回想するという形式でやや独白的な文章で綴られます。3歳のとき実父が死去、その後、義父が来るのですが、「憂鬱で快活ではない少年」は母から「実父そっくり」と言われます。しかし、その実父は小鳥をこよなく愛するナチュラリストであったらしい。学生時代に実母も世を去り、祖母のところへよく遊びに行った…、というふうな内容です。漁師が地引網を引いて沖の魚をたぐりよせるように、遥かな遠い記憶をたぐり寄せているかのようです。作品のなかで語られる身の上は深刻なものがあるのですが、上質の文章でサラリと書いてあるので深刻さがなく救われます。無駄のない整った文章というか、なかなか秀麗な文章であります。宇津木文学は、秀麗にして優美な文体で書いた “破滅型私小説ふうの随想文学” なのではないか? という感じで、これは多分、「こんなのはダメだ」という読者がいるかもしれない反面、熱心なファンがつく文学であろうかと思われます。ちょうど太宰治に熱心な信者が付くみたいなものでありましょう……。

●作品の前半で重きをなしている「わらべ唄考」ともいえるレポートも圧巻です。遠い昔のかすかな記憶を手掛かりに、ネット検索していくと、わらべ唄には基本形みたいなのがあり、それから派生したさまざまな亜種・変種・品種がぞくぞくと…、というのは興味深いものです。いよいよネット革命は文学の世界にも及んできたのかという感慨を受けました。文学作品というものは、ある意味ではその時代を写しとるものです。『あんたどこの子』はインターネットの普及した時代というものを見事に写しとっていて、その意味ではたぶん意図せずに行ったであろう “文学的実験” は大成功です。

さて、『あんたどこの子』を簡単に調べてみました。インターネット用語が頻出しています。出現頻度の高いものから挙げると次のようです。

4回出現の語……インターネット・サイト・ネット検索・検索
1回出現の語……インターネットサイト・ウィキペディア
        ネット・ウェブ辞書
ほかにも「ヒット件数」もあり、これもネット語かもしれません。

作品中に20回 “ネット語” が出現します。ネットで検索するという表現もあり、このような複合語的用法が3回あって、これを1回と見なすと17回です。7ページ半に17回の出現なので、2.26回/1ページです。本作品では、間違いなくこれらのネット語が作品を解釈・解析するキーワードになっていると思われます。考察するに、宇津木文学の作品中で、使用頻度の高い語彙の順に抽出して並べると、なにか作品の特徴がつかめるのではないか? と考えられます。が、それを手作業で解析するのは大変なことです。作品の全文を入力したら自動的に解析してくれるソフトがあればなあ…、と思います。

●文学作品を読み解くのも、コンピューターと数学(統計学)を駆使して解析する時代がすでに来ています……。
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