雑想庵の破れた障子
ぺんぺん草に埋もれた山中の雑想庵。 破れた障子の小さな穴から見えるものを綴ります。
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『味地草』 における白石村の記述について 「キツネの恩返し」
なんか “2ちゃんねる” でわたくしの拙文がコピペされて、白石村の話題が盛り上がっているようです。多くの人が郷土の歴史に関心をもつのは結構なことだと思います。そこで、約500年まえに海の底に沈んだ白石村に関する近世文書の記載をご紹介しましょう。江戸時代末期の安政4年 (1857年) に、小西友直・小西錦江の父子の手で完成した淡路島の地誌に 『味地草・みちくさ』 という書物があります。その中に白石村の記述があるのです。昭和47年に名著出版から限定300部で “影印本・えいいんぼん” として出版されました。
『味地草』の著者の一人の小西錦江についてのウィキペディアの記述

● 『味地草』 の中の白石村の記述は、とても面白いものです。そのまま民話というか昔話になるようなハナシです。なんだか 『今昔物語』 などの仏教説話を思わせるような話です…。キツネの恩返し…、というような感じです。

味地草より
↑ 『味地草』 第四冊の526ページ (冒頭の1行だけ) および530ページです。527~529ページは土生・地野・潮崎・阿万の海岸の絵図です。

味地草より
↑ 531ページですが、関係のない後ろ部分の5行はカットしました。

●さて、山のキノコの解読です。“変体仮名” と崩し字で書かれていますが、なかなか達筆で流れるような筆跡です。原文には句読点はありませんが適宜「、」や「。」をつけました。そもそも句読点の歴史は浅いものです。江戸時代後期の『浮世風呂』などに「。」が使用された例は若干ありますが、句読点が普及してきたのは明治後期からです。ので、江戸時代の文書に句読点などありません。ですが読みやすくするために句読点を適当に打ち、改行もしました。以下の解読にそう誤りはないと思いますが、もし誤りがあればご指摘くださいましたら有難いです。

拙解読
白石 阿万東村の境畝号にして池あり。上本庄村にも白石と云畝号あり。村より北西、谷は西向。奇怪清誠談に曰、淡路の国白石村と云片山家に柴村武左衛門とて田畑数多の主にて裕福にくらしける郷士あり。

或夜枕のもとに白髪の老翁来りて云。我は此山に住む老狐也。明日国主出て狩し給ふ。予幼児二疋を持ちてり。身を置に所なし。今足下の仁あるを見込み明終日の間養育得させ給はれと夢中に告げたり。
 
果たして翌朝老狐二疋の子を連れ来り。武左衛門諾して裏に隠居のありけるが是に入置、犬などの用心して食物好めるに随ひいたはり遣しけり。其夜に入りしかば何国ともなく子を連れて帰れり。

或日、武左衛門山に行くに松のふりよき枝を庭に移し植えんとて鋤を以て松を落としけるに松根に蛇蟠り居るを知らずして蛇の首を切りはなしたり。大いに驚き無益の殺生をなしたりとて其の首を捜し求むるに更になし。詮方なきままに家に帰り彼松を植えたり。

又夢中に老翁来たりて示して云。我は以前子を介抱に預り危難を免れし老狐也。其厚志を報ぜん為に来れり。今日君山に入りて蛇の首を切り落し給へり。其蛇深く恨を含みて仇を報はんと此家に忍び、壺中にある水を汲み給ふべからず。若し疑意あらば壺中を見給ふべし。又君が山田旱魃して満作せざる事幾年ぞや。我教ゆる所の土を掘らば清水湧出して旱魃すとも更に濁する事あるべからずと委しく諭して夢覚めたり。

武左衛門夢覚めて水中を見れば首あり。又山田の助と成りて湧出させんと有所の指図の場所を人夫をして掘りたるに清水山田に充満して満作を得、子孫栄耀を極めたりける。敷地の内に稲荷の小祠を勧請し今に至りても此家相続きて往古の如く富む。人皆仁心の有難きに據らずや云々。

按するに今白石村と云所なし。然れば畝号の白石は則往昔の村名なる事もあらんか。

●次に、山のキノコの現代語訳です。若干の不明な点もあるのですが文脈から類推し、行間の意味を補い、言外の意味をもつけくわえました。逐語訳ではなく意訳を主体としてできるだけ小学生にもわかるように易しく書いてみたいと思います。(解釈を間違っている箇所があれば、ご指摘くだされば有難いです)

拙現代語訳
白石村について少し述べてみましょう。
南あわじ市の灘地区潮崎と阿万地区東村との境のところに、詳しい地名に “白石” という名称があります。そこには小さな池もあります。また阿万地区の上本庄村にも “白石” という名称があります。その白石という場所は灘地区の潮崎集落からは北西の方向にあり、谷になっているのですが、その谷は西のほうに流れています。
『奇怪清誠談』という書物に書かれていることですが、淡路の国に白石村という村があります。そこに郷士(ごうし)と言って百姓よりも上で名字帯刀をゆるされた身分の家で、片山家という家がありました。その当主で武左衛門(ぶざえもん)という沢山の田畑を持つ人がいたのです。まあ、裕福にくらしていた下級武士です。

ある夜のことです。ブザエモンが寝ていたら、夢枕に白髪のおじいさんが出現しました。そして言うのです。
「ワシはこの山(諭鶴羽山か?)に住んでいる “おじいさんキツネ” じゃ。明日、この淡路島を治めているお殿様がやって来て狩りをされるというなのです。ワシには小さな孫キツネが2匹いるんですが、諭鶴羽山には身を隠す所がありません。いま山の上から麓の村を眺めたら、白石村に親切で優しく他人が困っていたら助けてくれる人がいるにちがいないと思ったんじゃ。どうか明日一日だけ孫キツネ2匹の面倒を見てくだされへんじゃろか?」

思った通り、次の日の朝におじいさんキツネが子ギツネ2匹を連れてやって来ました。そのおじいさんキツネは尻尾を振るだけでなにも言いません。しかしブザエモンは夢のお告げを思い出し、よっしゃ、まかしときと承諾して、子キツネを裏の離れの建物にかくまいました。おじいさんキツネは犬が襲わないように気を付け、子キツネが喜ぶ食べ物を与えて、すこし子キツネをあやしてから山に帰りました。そして無事に一日が終わり、夜になるとどこからともなくおじいさんキツネが現れて、孫キツネを連れて山に帰りました。

さて、ある日ブザエモンは、庭に枝ぶりの良い松の木を植えようと思って山に行きました。松の木を掘りおこそうと鋤をふりあげたところ、その松の根元に蛇がとぐろをまいているのに気づかずに、その蛇の首をちょん切ってしまいました。ビックリ仰天して、する必要もないムダな殺生をしてしまったと反省し、せめて丁重に葬ろうと思い首を捜したのですが不思議なことにありません。仕方がないのでそのまま家に帰って、その松を庭に植えました。

また、ふたたび白髪のお爺さんが夢の中に現れました。ワシは以前に孫キツネをかくまってもらって危ないところを助けてもらったおじいさんキツネじゃ。あなたの優しい気持ちにお礼をしようと思って来ました。今日あなたは山に入って蛇の首をちょん切ってしまったでしょ。その蛇がたいそう恨みを持って、仇打ちをしてやろうとこの家に忍びこんでいますよ。ですから水甕のつぼの中の水を汲んではなりません。もし嘘だと思うのでしたら水甕のつぼをのぞいて見なさるといいでしょう。それから、あなたが所有する山の棚田がひでり続きで思うように収獲出来ない年が何年続いていますやろかな? ワシが言う所の土を掘ると清水が噴きださんばかりに湧いてきますよ。たとえ雨が降らずひでりが続いても、その湧水はこんこんとわき出て清水が涸れたり濁ったりすることもないのじゃよ。と詳しく言ってくれたが、その時ハッとして目が覚めてしまった…。

ブザエモンが夢から目覚めて起き上がり、水甕のつぼをのぞいたら首があるではないか! (夢のお告げは本当だ!) それから、旱魃の被害が発生しやすい山の棚田の対策として、夢のお告げの清水を湧出させようと、お告げが言っていた場所を人夫を雇って掘りました。そしたら、あら不思議、清水がこんこんと湧き出して山の棚田が満水です。世間はひでりで困っているのにブザエモンの田んぼは大豊作! そうしてブザエモンの家は子の代、孫の代づーっと栄耀栄華を極めることになったのです。それで屋敷の庭にキツネのお稲荷様の祠をお祀りして、今となってもこのブザエモンの子孫の家は絶えることなく続いているのです。しかも昔のように繁栄しているのです。貝原益軒は “人にはみな仁心あり” と言いました。仁心 (じんこころ) とは優しさとか親切心や愛する心というものです。それらは本来みんなが持っているものですし、その仁心によって良い社会ができるわけです…。 『奇怪清誠談』 に書かれているのは、このようなハナシなのです。

考察するに、今 (つまり味地草が書かれた江戸後期) では、淡路島には “白石村” という村は存在していません。ですから、潮崎と東村の境界に白石という名称があるのは、つまり昔に白石村というのが存在していて、その昔の村名の名残であるという事が、可能性としてあるのではないでしょうかねえ? (ま、よう分かりませんが…)

『夕鶴』 似の 『キツネの恩返し』 か?
●と、こんなハナシです。戯曲作家の木下順二の書いた 「夕鶴」 を思わせるハナシですね。良いことをすれば、それは別の形でやがて自分に帰ってくるという “善行の再帰性” を説いて、良いことをしなさいと説教しているようにも見えるハナシです。この説話的な小品を文学作品として読んだ場合、少し不満が残ります。あまりにも調子がよすぎるのです。ハッピーエンドになっています。ハナシにひとひねりを加えるほうがいいと思います。老ギツネがブザエモンさんに富みをもたらすお礼をしたのですが、その富を得るのに守るべき条件をつける…、その条件は欲望との葛藤みたいなものにして描くのです。結局ブザエモンさんは欲望にまけてその条件を守り切れなかった…、とそんなほうが良いのじゃないでしょうか?

『味地草』 が書かれたのは白石村が海底に沈んで300年あまり後であろうかと思われます。江戸時代後期にすでに詳細は分からなくなっています。『奇怪清誠談』 とは何でしょうか? 江戸時代に発行されたマイナーな書物? すでに散逸してしまった? 調べましたが分かりませんでした。ご存知の方がいらっしゃったらご教示ください。

白石村 (しらいしむら) 沈没伝説について

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白石村(しらいしむら)沈没伝説について
●淡路島最南端に位置する南あわじ市灘地区に、子々孫々に伝えられてきた伝説があります。白石村沈没伝説です。それは約500年前に大地震により海岸にあった村が海没したという話です。これは灘地区では皆が知っているハナシです。灘土生 (なだはぶ) というところに漁港があるのですが、その土生の海岸から3~4㎞沖合に浮かぶ沼島 (ぬしま) の方に向かって岬のような地形があったとされています。おそらく砂嘴 (さし) という地形であると考えられます。北海道・根室の北西に野付半島という所がありますが、海岸から沖に向かって突き出す砂州からなる細長い地形です。そのような砂嘴という地形が灘土生にあったのです。そこには白石村という村があったと言い伝えられています。その白石村が大地震で海没したのですが、それを裏付ける話がいろいろとあります。

(実は、このような話は各地にあります。この淡路島でも、島の北部で野島断層が動いて兵庫県南部地震が起こりましたが、その野島地区でも大昔に 「野島」 という島があって地震で海没したといわれています。この話は 『味地草』 に載っています。全国的には大分県別府湾にあったという “瓜生島沈没” があまりにも有名です)
石田地震科学研究所 新・地震学セミナーからの学び『12 瓜生島沈没ー日本のアトランティス物語』
↑ サイト主宰者は地震の非専門家であり、プレートテクトニクス理論を否定し、地震は予知可能と主張し、会員を募って予知情報を提供しているらしい…、とかなり胡散臭さが目立ちます。
こちらはWikipediaです。「瓜生島・うりゅうじま」

『淡路温故之図』 という古地図 (昔、津名町立図書館に天井ちかくに掲げていました。模写したものがあちこちで見られます) があるのですが、その古地図にも記載されています。灘土生から沼島の手前まで突き出している砂嘴地形が描かれています。しかしこの古地図は、地方史家の研究により江戸時代後期に作られたニセモニだという評価になっています。この古地図の作者が想像でそれらしい古地図を描き、言い伝えられる白石村沈没伝説を図中に書き込んだものと思われます。明応9年 (1500年) に白石村が沈没したとしています。また沈没したのは白石村の他に5ヶ村があったなどと書いてあります。

古文書や文献に白石村沈没事件の記載はほとんどありません。わずかに、江戸時代末の安政4年に編纂された 『味地草・みちくさ』という淡路国の郷土誌には次のように記されています。
「白石、阿万東村の境畝号にして池あり。上本庄村にも白石という畝号あり。村より北西、谷は西向。奇怪清誠談に曰く、淡路の国白石村と云片山家に柴村武左衛門とて田畑数多の主にて裕福にくらしける郷士あり。 (中略) 按するに今白石村と云所なし。然れば畝号の白石は則往昔の村名なることもあらんか」
ようするに今は白石村はないが、昔あったらしいということです。
『味地草』 における白石村の記述について 「キツネの恩返し」

宇佐美龍夫編著 『わが国の歴史地震被害一覧表』 にはごく簡単に 「十町の砂州海となる」 と記載して、明応7年 (1498年) の東海道沖の大地震の被害だとしています。

証言もあります。灘土生の漁師さんの目撃証言です。大潮で海面が下がったときで、波や風がなくてベタ凪のときに、しかも海水の透明度が高い時に、沖合の海底に鳥居(神社の鳥居です)が見えるというのです。おそらく500年前に沈んだ白石村の鎮守の社の鳥居であろうと考えられます。

ほかにも諭鶴羽神社に昔白石村の信者が玉石 (白石) を奉納したと伝えられていて、本殿の御垣内にその白石が敷き詰められています。言い伝えでは浜辺に白い石があったから白石村という村名になったそうです。

●考察です。おそらく、明応7年8月25日 (1498年9月20日) に発生した南海トラフ沿いの巨大地震の被害であろうかと思われます。紀伊から東海道にかけて大津波に襲われ、伊勢大湊で溺死5000人、伊勢志摩で溺死1万人、静岡県志太郡で流死26000人など (理科年表による) ものすごい人的被害です。で、次のように想像してみました。

勝手な想像。妄想のたぐい。検証されたわけではありません。
(1)白石村は砂嘴 (砂州) 地形だから極端な低海抜です。おそらく海抜3~4m程度であっただろうと思われます。全長はせいぜい1~2㎞程度。大きな砂嘴を作る為には大量の砂の供給源が必要ですが、それがありません。また、この砂嘴にはマツの木は生えていませんでした。 『味地草』 に記載の話で、白石村の住人が庭木にするマツを山に掘りに行ったとの事から分かります。 (その砂嘴にマツがあればわざわざ庭木にマツなど植えない)

(2)各地の砂嘴地形を観察すると、海岸線の曲線部分に接線を引くような方向に砂嘴が形成されます。それは海流や潮流が海岸線に対して平行に走ることが多いからです。したがって沼島の方向に砂嘴が伸びることなどありえないです。土生海岸線から直角の方向ではなく、斜めに30~40度くらいの角度で砂嘴がのび、先端が東 (和歌山方面) に流れ、先端付近は海岸とほとんど平行になるぐらい内側に巻き込んでいたのです。そう考えるのが合理的です。

(3)海溝型地震による数分に及ぶ揺れで液状化現象が発生、白石村集落の建物などが一挙に砂にのめり込んだものと想像できます。液状化現象による陥没が発生したのです。

(4)それから、紀伊半島先端や室戸岬などでは2m程度の地盤隆起が起こる半面、紀伊半島の付け根 (白石村) では逆に1mぐらいの地盤沈下。つまりシーソーのようなものです。海溝に近い部分が隆起し、海溝から遠いところが沈下したのです。 (東北太平洋沖大地震でもこの現象が顕著に起こりました)

(5)これらは一瞬の出来事で、そのあと1時間ほどして津波が襲来しました。津波はそれほど大きくはなかっただろうと思います。3m程度か? 大きな津波では鳥居が破壊されます。そのため海底で、鳥居だけが偶然に倒れずにうまく残った。

(6)以上で白石村はほぼ壊滅しましたが、砂嘴そのものは海面すれすれで残ります。砂嘴全体が海面上に出たり入ったりと言う状態で、その後急激に浸食が進み、30~40年ぐらいで砂が全部流された…。

(7)砂嘴地形など安定的なものではないと思います。砂丘の砂山みたいに形が変わっていきそうです。西日本を襲う150年周期ぐらいの海溝型巨大地震のたびに、砂嘴の地形が変化したのではないのか? 白石村にとってはこの1498年の大地震が村の終焉になったのではないのでしょうか?

(8)白石村沈没は海溝型巨大地震によるもので、内陸地震ではなさそうです。内陸地震では津波も起こらないし、地表に現れる断層が小さすぎます。被害は山崩ればかりで、砂嘴地形の沈没にあまり結びつきません。根尾谷の6mの垂直段差を生じた濃尾地震 (M8.0) 級の地震ならば白石村を一挙に6m沈める可能性もあります。しかしながら、この地区には中央構造線の断層帯が海岸線を走っていますが、しだいに諭鶴山系を高く持ち上げているようです。海側を沈下させているようではなさそうです。また、内陸地震では地震の揺れが10~20秒ほどで短く、液状化現象の発生が少ないのではないか? (揺れの周期も関係しそうで、よく分かりませんが)

●さて、砂嘴(さし)とはどういう地形なのか? 砂が堆積してできた地形で、鳥類の 「くちばし」 のような形状のものをいうのであります。まず、下の国土地理院の 『電子国土ポータル』 からコピーした地図をご覧ください。
北海道・野付半島
野付半島の航空写真 ウキペディアより
↑ 北海道の根室半島と知床半島の中間あたりにあります。全長28㎞にも達する日本最大の砂嘴です。砂嘴の地形の走向と先端の屈曲から、西北西から東南東に向かう海流があることが分かります。知床半島あたりの山を浸食した砂が海流に運ばれてきているのではないか?

静岡県・三保半島
↑ 「天の羽衣伝説」 で有名なところです。砂嘴の地形が埋め立てなどでかなり改変されているような気がします。明治時代に旧陸軍が測量した地形図をぜひ見たいと思います。砂嘴の先端の曲がり具合から、南西から北東に向かう海流のあることが分かります。

●つぎの写真は、白石村が海没した海域です。土生漁港の辺りから沖合に向かって砂嘴が伸びていたと考えられます。昔、漁師さんたちが海底に鳥居が見えるといっていたのは漁港の沖合のあたりです。海図や海底地形図を見ると、灘海岸の他のところよりも土生漁港の沖合の方が遠浅になっていて、水深が浅いです。

南あわじ市灘土生漁港
↑ 写真左側が南あわじ市灘土生 (なだはぶ) 漁港です。右側の島影が沼島 (ぬしま) です。土生漁港周辺は埋め立てが行われたので、本来の土生海岸線から沼島北端黒崎までの最短距離は3030m、土生漁港の防波堤先端にある灯台から沼島北端までは2890mです。また、沼島汽船の土生乗船場から沼島乗船場までの直線距離は3960mです。(国土地理院の『電子国土ポータル』で測った)

国土地理院の『電子国土ポータル』はここです。地形図上で距離や面積などが測れて、とても便利です
国土地理院の地形図の閲覧はここです。ナチュラリスト必須閲覧サイトです

神秘こもれる沼島
↑ 歴史と神話に彩られた神秘こもれる沼島 (ぬしま) です。島は勾玉(まがたま)そっくりの形をしています。あるいは母親のおなかの中にいる胎児のような形です。島の大きさは、長さがNNE-SSW軸における最長直線距離が2730mです。幅がSE-NW軸における最長直線距離が1460mです。島の外周は9090m、面積は2.703平方㎞です。
(国土地理院の 『電子国土ポータル』 で測った)

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